中井1

カラスは立て続けに三本サービスエースを奪う。チャンピオンシップポイント。次の二ポイントは二本とも甘いリターンだった。当然カラスはこれを目一杯強打。二本ともあまりにもチャンスボールだったので、却って余裕があり過ぎてアウトになってしまった。ただカラスが偉いのはチャンスボールでも気を抜かず、自分からウィナーを取りに行っている事だった。意味のあるミスだった。

中井とは違い、相手のミス待ちの姿勢は絶対に見せなかった。結果この二本の強打は勝利の伏線となる。中井はベースライン付近に釘付けにされていた。そして依然(40-30)フォティーサーティーのマッチポイント。

最終セット、最終ポイント。劇的で残酷な終わり方。

またしても中井のリターンは甘かった。浅い位置にバウンドしたボールはカラスの餌食になるだけだった。だがなんと、カラスは十分に追いついた状態からドロップショットを放つ。生涯唯一の閃きだった。しかしこのドロップショットも甘かった。中井がハードヒットを苦手とするのと対照に、カラスはタッチショットは苦手だった。本来は逆に相手の餌食になってしまう。だがそうはならない。

中井がベースラインの遥か後ろでもたもたしているからだった。中井は慌ててこのドロップショットを追う。その足取りは重くドタドタと、天才には似つかわしくない醜いものだった。

ヨレヨレなのは中井の方だった。やっとの思いで返球した打球のその位置にカラスがいた。カラスが待っていた。二人はネット越しに、手を伸ばせば握手ができるぐらいの距離にいた。カラスが選択した最後のショットはロブボレー。

逆を突かれた中井は大慌てで回れ右。そのロブショットをダッシュで背走するべく第一歩。足がもつれる。足が滑る。無様に転ぶ。膝を強打する。その膝からは血が。ベースライン付近にインとなった山なりの打球は、中井を嘲笑うかの如く遥か彼方へ大きく二度三度とバウンドしていった。中井はうつ伏せの状態でこの悪夢を見ていた。惨めだった。

一方勝利が決まったカラスは仰向けの大の字になって、最大限にその喜びを享受していた。観客はネット越しの勝者と敗者を、明と暗を、歓喜と悲哀をその象徴的な姿で見せつけられた。

ゲーム、セット、ザ、マッチ。ウィナー、エミール・カラス。セットカウント【2-1】ツーワン。

最後の一ポイントは、中井が散々カラスに仕向けていた戦法の、そのままお返しだった。三時間十七分の死闘だった。