食ってかかるような苛立たしげな口調だった。ムッときたが、何かあったんだろうと思い黙った。むしろ今まででこんなことを言ってくれたのは初めてで嬉しささえ感じたのだが、彼女にはそこは話さずに、

「不機嫌にこんなこと言われたんですよ」

「まあ、そんなことがあったの。明雄さんどうしてそんなこと言ったの」

「いやー覚えてない。それよりいつまで話してるんだよ二人とも。明日また車を運転して戻らなきゃならんのだから、寝よー寝よー」

吉越は本気モードで眠りに入った。

図書館での生活が二年余り、三年目には二日に一度言語治療士の傍で患者さんとのやりとりを見学し、そのときメモったものを夜帰ってからまとめ清書した。

さらに週に一回の勉強会にも参加できた。患者さんの検討や、外から来た人たちとの勉強会で外国の文献を読み合わせることが多かった。

さらに数カ月が過ぎ、週一回もしくは二回程度患者さんの検査や訓練をさせてもらえるようになった。その場面で使う検査道具や記録用紙など指が使えないために困ったことも多く、ときには机から道具を落としてしまうこともあった。

それでも少しずつではあったが仕事にも患者さんにも慣れてくるようになり、研修は比較的順調に進んだ。

一人の言語治療士が病室で患者さんを診るためそれに同行したときだった。なぜか病室でざわめきがしていた。入ってみると患者さんはテレビに釘付けのようであった。大打者の長嶋が十連覇できなかった今季を境に引退を表明していたのだ。

小学生の頃から憧れていた一人の野球選手が現役を退く姿が映し出され、スポーツ選手の有終の美が演出されていた。

彼のようにテレビで放映されるくらい有名になりファンも多いスーパースターもいる陰で、人知れず去っていく幾多の選手がその中に埋もれている現実を知っていると、無名の彼らに対し一抹の寂しさを覚えた。

研修を始めて二年半ほど経った日、長兄から言われた。

「だいぶ勉強が進んでいるようで、患者さんの検査や訓練も少しさせてもらってるんだって? この先続けて仕事ができるようになるといいけど、あてはあるのか」

「この病院では研修を始めさせてもらうときに『ここで雇用することはできない』と言われたので、どこか雇ってもらえる病院を探してみるよ」

以前この病院で車椅子の人を雇用していたが座骨の褥瘡(とこずれ)のために休むことが多く、仕事が思うようにできず退職したことを、入院中に聞かされたことがあった。

「ああ、そうしてみてくれ。お前への出費が多すぎて親父も僕もそろそろ限界にきてるんだ。すまんが分かってくれ」

「うん分かったよ。今年いっぱいか来年三月くらいまでには辞めるつもりでいたんだよ」

翌日すぐさま院内の病院年鑑を借り、履歴書を新潟県の病院に四通と山梨県内の病院に二通出した。津久田先生からは

「仕事はなんとかできるようになったね」

と言われていたからである。しかし一カ月経っても一カ月半待っても返事は全く来なかった。さらに五通の履歴書を五カ所の病院に送り、待った。それでも返事は来なかった。

手紙で、四肢麻痺の体ですが面接だけでもぜひお願いしますと訴えたがそれほど甘くはなかった。

やるだけやった。これ以上父親や長兄に負担をかけるわけにはいかない。そう思うとなぜか苦しくはなかった。