生命の崇高と人体構造の神秘を描き切る傑作。

ほぼ100日、約3カ月におよぶ正統解剖学実習。死者と向き合う日々のなかで、医学生たちの人生も揺れ動いていく。目の前に横たわる遺体(ライヘ)は何を語るのか。過去の、そして未来の死者たちへ捧ぐ、医療小説をお届けします。

第2章 乳房が簡単にずれて、はずれる。筋肉や骨を切断する

ドジだな、高久が揶揄する。田上と高尾が黙って笑っている。急いで手袋をはずし、指を流水で洗う。

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絹川助手がバンドエイドを巻いてくれる。独身と言われているが、30代の半ば位だろうか、実際は何歳だろう、などとぼんやり考えた。人骨や屍体を切り刻む現場にいては、結婚する機会に恵まれないだろう、と余計な心配をしながら持ち場へ戻った。

他の三人はテキストを囲んで何ごとか話し合っている。どうも今までとは様子が違うらしい。テキストに曰く、後頸部や外後頭隆起あたりから頸椎の棘突起に向かって硬い結合組織が走っていて、真皮と強く結合している、と。

すなわち、このあたりは皮下組織がほとんどなくて、直接皮膚が頭蓋骨に強く張り付いている具合なので、皮剝ぎをするのがやりにくいと暗に示唆しているのだ。余りにやりにくいので三人集まって再確認していたのだったが、とにかくやり抜くしかないようだった。外耳孔いわゆる耳の穴と外後頭隆起を線で結び、隆起から外側に2㎝から3㎝のところあたりに、後頭動脈と静脈、大後頭神経が僧帽筋の腱を貫いて出て来ているとテキストに記述してある。