「神の御わざ」にも思える心臓の解剖

身体、肉体とは神様からの借り物だというが、ここまでの解剖学実習を通じて僕が持った感想というのは、人間とはまるでロボットみたいだ、というものだった。

腕でも足でも、人工物で置き換えられそうな気がした。筋肉への神経支配は難物だが、医学、科学の進歩を思うとき、それも遠い事ではないかもしれない。

その人をその人たらしめている究極のもの、それは脳以外にはない。

突き詰めれば、その人が亡くなるというのは、脳が死を迎えるという事に他ならないかも知れない。

事故か何かで、手足を失い、その手足は死を迎えるのだが、誰もその本人が死んだとは言わない。しばしば死因として、心筋梗塞、肺梗塞などの病名が付くが、結局は脳の死への原因でしかない。脳だけがその人の本質と言えるのだろうか。

しかし、それが本当であっても、心情的には、姿や形を全く考慮しないことは考えにくい。将来、仮に脳の移植が可能になったとしても、体つき顔だち、声の変わったその人を同じ人物と思えるだろうか――。

僕が独り夢想に耽っている内に、いつの間にか他の三人は切り出した心臓の観察を始めていた。すべての血管を切断された心臓はずんぐりしたジャガイモにも、樽のようにも見えた。肺動脈、大動脈等の大きな血管を根元から切られて、幾つも穴が開いているのは、何か間抜けているように思える。

これから、さらに心室と心房に分ける。心臓の表面は心外膜に被われて、ちょうどビニール袋でぴったりとくるんだように、光沢がある。その下にところどころ脂肪が固まっているのが膜越しに見える。心臓を、人体全身に例えるなら、ベルトのように、血管が一周している。頭に例えるなら、鉢巻きみたいだ。

これは冠状動脈という、心臓自身を養うための血液を運ぶ血管だ。心臓本体は左右の握りこぶしを合わせたくらいの大きさで、今度は壺のような形に見えた。

これからさらに心臓の解剖を進める。テキストを見ると、方法は二つあるという。一つは心房と心室を分離するもので、もう1つはそのまま各部屋に外から穴を開けてのぞく方法らしい。

我々は相談して、結局、分離する方を選んだ。病理、臨床医学的、解剖学的、あるいは哲学的見地というより、単純に、その方が面白そうだったからだ。

お主がやれよ、と田上から冗談っぽく手渡されて、僕は両手で恭しく、捧げ持った。

まず、周辺の結合組織をていねいに取り除き、心室壁に分布する血管を心筋の層から引き離す。動脈は大動脈の起始部まで掃除して完全に浮かせておく。静脈も心室の筋層や房室間溝から浮かせる。心房と心室の間を割るように、ピンセットで結合組織を除去しつつ一周進める。左右の心房と心室のつなぎ目に当たる部分の心内膜を切ると、心房と心室はかなりぐらぐらしてくる。心房と心室の間には、実は本質的つながりはないのだ。

そして、大動脈の根元の、左右の房室口の間の、右線維三角という部分から心房の筋層を剝がせば、心房と心室はあっけなく外れた。二つに分解された心臓の各部分は、異様でかつ滑稽な姿をしている。心室の方は心室壁から外れた血管の枝が、蛸の足のように周辺に垂れている。