プロローグ

この小品は、幾つかの数奇な偶然が重なって世に出ることになりました。その具体的なことは後書きに譲るとして、この作品を書き始めたきっかけについて、どうしても初めにひとこと触れたいと思います。

それは当時、理由のない無差別な殺人事件が頻発したことでした。

誰でも良かったと何人も殺された通り魔殺人、むしゃくしゃして人を殺したかったという行きずり殺人。とにかく人を殺してみたかったという事件さえありました。そんな動機で殺された側の本人・家族の無念さに同情するとともに、なぜそんなに簡単に人が殺せるのか、犯人の心理が全く理解できないまま、解けない疑問としてしばらく自分に付きまとっていました。

いろいろ思いめぐらせてみて、自分なりに得た一つの推論は、あの犯人たちは人間の尊さを知らないからではないか、というものでした。それは、一方で他の動物にはない人間の高等複雑な思考能力、精神性の高さ、すなわち人間の尊厳のことですが、他方で人体の構造そのものの神秘といえる複雑さ、精緻さも含めてのことです。

このとき私に思い浮かんだのは、医学部生の時の解剖学実習でした。かつて自分たちが経験したように、人体の持つ構造の神秘ともいえる複雑さ、精緻さを知ればそう簡単に他人様を、軽々しく殺傷できないのではないか、そして同時に自分自身をももっと大切に思うようになるのではないか、と考えました。

実際、医学部の解剖学実習を経験して、経験する前と人生観が変わる学生が多いといわれています。

しかし、そうはいっても人体の構造を細かく知る機会は、普通の生活にはなかなか有りません。書店には簡単な人体図鑑はありますが、本格的に詳細な人体の緻密さ神秘さを知るには至らず、詳細なものは難しい解剖学の専門書となってしまいます。