朝鮮総督府庁舎

工事開始は大正5年(1916年)、竣工は大正15年(1926年)とおよそ10年の歳月をかけて花崗岩で造られた白亜の豪華な庁舎でした。

京城帝国大学(大正13年・1924年創立)とこの新庁舎の門塀は、ほかの資材同様まだ朝鮮では調達できず、私の父と同じ京城元町小学校の同期の方の父親の手によって日本から船で運ばれ収められましたが、玄関・廊下・会議室などは、朝鮮半島産の大理石を用い、鮮やかな色彩で飾り、大ホールには、日本人画家和田三造氏の手による、内鮮の縁を象徴した大壁画が掲げられました。

ほとんどの歴史書や学校の授業、旅行ガイドなどでは、この朝鮮総督府庁舎は「景福宮の前」に建てられたと説明されていると思いますが、正しい意味を知っていた人たちは「景福宮の下」に建てられたと話していました。

旧庁舎から位置を変え、あえて景福宮の下にした理由とは、漢江鉄橋から龍山駅を通り、京城駅、そこから南大門通を通り光化門通と上り、王宮である景福宮へといたる過程が龍の形になり、漢江側を下に景福宮を上にして、水中から天へと龍が昇る「昇龍」として平面の地図を立てるように見るものでしたので、天を飾る星座の三角形の頭が、韓国では龍の化身であるとされていた皇帝の宮殿に向いている必要があったからです。

また、日本でもなじみ深い、急流を昇り切った鯉が龍になるという「鯉の滝登り」と呼ばれる、中国の故事にならったものでもあり、この一帯に、龍山や臥龍という龍にちなんだ地名が多く付いていることからも、日本側は古くから中国文化の強い影響下にあり、風水を重んじる朝鮮の文化に配慮しつつ、日本で留学を終えた皇太子が、皇帝に就任するという意味も込めたものでもありました。

漢江を登って龍になった皇帝の宮殿は、龍の頭であり、天にある宮殿(天宮)であるということから、大正時代に、日本が建設した朝鮮総督府新庁舎や軍事施設は、皇帝の権威を犯さないように景福宮の下に造ったのです。

そして、朝鮮総督府庁舎大ホールに掲げられた壁画、題名「羽衣」には、朝鮮の伝説(白頭山や金剛山の羽衣伝説)と日本の伝説(静岡県三保の松原や京都府の丹後に伝わる羽衣伝説)が同一であることから「内鮮一体に還る」の意味を込めて、水浴びをする天女と、その近くには羽衣、それを見る樵という男女の図が描かれました。