韓太子の留学に秘められた伊藤博文の計画

伊藤博文は、ここで韓国皇太子が日本に留学すること、その同伴を頼まれていること、さらに留学が10年くらいにはなることを、子供たちや参加者に示しています。

日本側から先に、嘉仁親王(大正天皇)に皇室の慣例を破り、日本海を渡り韓国訪問をしていただいたことで、韓国もまたそれにならい、自国の皇太子を日本へ留学させたのです。すなわち、韓国皇太子の身柄は、日本側が責任をもって預かり返しますという両国納得の約束になっていたのです。

同じ『伊藤公全集 第二巻』の韓太子留学の経緯と日韓の融和(明治42年・1909年・8月1日・水戸歓迎会に於て)でも、歓迎会出席者に水戸の小学生が提灯を掲げ、韓国皇太子を歓迎してくれたことに感謝し、このことが、将来の日本と韓国との友好へとつながることと述べています。

誰よりも日韓友好と韓国皇太子の成長を望んでいた伊藤博文。祖父靖国の名前の由来ともなった明治維新の旗を掲げた水戸藩士の生地に、12歳の韓国皇太子をお連れして、韓国維新成功のための覚悟と、新時代の韓国の行く末は、あなたによって決まるということを説いたのでしょう。

さらに、こののちに訪れた北海道でも『伊藤公全集 第二巻』日韓の関係 (明治42年・1909年・8月6日・函館歓迎会に於て)出席者に対して、韓国との関係や韓国皇太子留学の意義について語り、朝鮮半島と北海道が、日本の国防上の重要地点であることを示しながらも、朝鮮半島は、韓国の領土とハッキリと言っています。