「断れば村人の反感を買うことになるぞ!」

享保十三(一七二八)年九月、豪雨による洪水で多摩川が氾濫、左岸側の大野郷の土地のほとんどが泥水に浸かってしまった。収穫を前にして稲穂が腐るのを防ぐため村総出で排水作業を行う必要に迫られた。

排水作業は洪水を早く引かせるため排水路を掘り、田んぼから水を引かせる作業である。

これまであちこちに点在していた雑木林や雑草地は元々低地で水が溜まりやすく、耕作不適地として一時的に洪水を溜める場所とされてきたが、開墾が進み、こうした土地が少なくなってきていた。

村の名主、組頭、百姓代など主だった者が集まり対策を話し合った結果、次郎平の畑に白羽の矢が立った。

次郎平の畑は元々雑木林であったものを開墾して畑にしたとはいえ、いまだに野菜や雑穀以外はできない土地柄で、土地も低いことからここに排水路を付け、一時的に水を流させてもらうしかないという結論を出したのである。

名主を筆頭に村役人、そして仲介に父親の次郎右衛門を引き連れた一団が次郎平の家へやってきた。

「事は急を要する。年貢が納められねば村全体が困るのだ。何とか承諾してくれ」

と有無を言わせぬ物言いで、次郎平が返答を渋っていると、

「断れば村人の反感を買うことになるぞ!」

と、名主藤左衛門に一喝され、次郎平は畑に洪水を誘導し溜めることを承諾せざるを得なかった。

村の百姓たちによって排水路が次郎平の畑につけ替えられると、見る見るうちに泥水が三反歩の畑に流れ込み、周辺の田んぼは水かさが低くなっていった。

これまで開墾した畑は一瞬のうちに流木や石の転がる荒地に戻ってしまったが、これによって村の稲作は最小限の被害ですんだ。その後、名主の指示で村人が畑の後始末に来てくれたがそれも数日で引き上げてしまい、次郎平と里の畑作りは大きく後戻りした。