戦地と同じような切迫感はここにはないのだ。

「上等兵殿。軍隊では、命令はどんな簡単なものでも必ず復唱させられます。しかし、分かりきったことは復唱を省略しても良いように思います。歩行訓練に始まる各種訓練も、もうすべての者が習得し、これ以上やっても意味がないのではないかと思われても、なお何度も何度も同じことを繰り返し行います。兵隊の教育というのは、このようなやり方が最善なのでしょうか」

大宮は、柔和な目で杉井をちらっと見てから言った。

「お前は随分厳しい教育だと思っているかも知れないが、なんのかんの言ってもここは戦地ではない。だから、ここで戦地にいるのと同じような切迫感を感じさせようとしても、それは難しい。一方で、ここで覚えたことを戦地で使えないのでは何の意味もない。

戦地でもないところで学習したことを戦地で実践させようと思ったら、一つ一つのことを頭で考えさせていては駄目だ。体で覚えさせること、肌に染み込ませることが大事だ。

俺の学校の同級に中学野球で全国大会に出た奴がいる。遊撃を守って見事な守備をしていた。ところがあとで聞いたら、いままで経験のないような大観衆の前であがってしまって、三回くらいまでは自分が何をしていたか覚えていないと言うんだ。

それでも試合開始直後から、自分のところに球が来れば無意識のうちに正面で捕球し、一塁に正確に送球している。あれは、毎日毎日放課後から暗くなるまで、弛たゆまぬ訓練をしているからこそできることだ。いざという時に緊張してやるべきこともできんような奴を戦地に送ったら、すぐに死んじまうものなあ。

それから、お前の言った命令の復唱だが、部屋を出る時、部屋に入る時も含め、全員が大声を出すことによって、ひそひそ話も内緒話もなくなり、部屋に陰湿さのかけらもなくなる。

それに、自分のやることを人前で大声で発言すれば、各自が自分の行動に責任を持つようになるし、集団の中で自分の存在もはっきりしてくる。やらせていることにはそれなりの意味があるのだ」