第2章 補助金の論理

2 補助金の必要性、正当性

「公共性」という概念について

日本における「公と私」についてもう少し考えてみよう。

先に「『私』という概念が日本では確立していなかった」と書いた。それは、そもそも日本では「個人」が意識されることがなかったからだ。

日本における「個人」は、家、ムラ、そして現代では企業などの集団の一員にすぎない。個人の利害関係は集団の利害関係に劣後する。

一方、欧米の「個人」は集団からは独立している。まず最初に個人があるのであって、集団は個人の集合体にすぎない。

この違いは宗教に対する姿勢によるものだ。キリスト教の精神世界にあっては、神と個人のあいだには何も存在しない、親も兄弟も家族もない、もちろん企業もない。

最後の審判が下されるのは自分自身の行動に対してであって他人は何も関与しない。特にプロテスタントは神と個人のあいだに教会が介在することも拒否する。

欧米の個人主義はここから出発している、キリスト教に由来するものである。そして資本主義的経済システムが個人主義をよりいっそう強固なものにしていった。

日本研究で知られるイギリスの社会学者ロナルド・ドーアは『21世紀は個人主義の時代か』(加藤幹雄訳サイマル出版会1991年)で、欧米において「個人主義が強まる方向への移行が発生したのは、人口の大部分が労働と生産物を競争的市場で売る人びと、すなわち自己の運命に対して自らが責任をもつ人びとへと変わっていったその市場支配の経済状態が、数世紀間にわたって存続したことである。たとえばイギリスでは一五世紀から一九世紀まで存続した」と述べた。