2.倫理観の対立:カント的倫理観と功利主義

カント的倫理観とは有名なイマヌエル・カント(1724-1804)の倫理学を代表とする学説で、ものごとの結果よりも、きちんとルールに則って行動したか否かによって、行為の正しさを判断するものです。例えば医療倫理に関する義務としては、「約束を守れ」「自律を尊重せよ」「真実を語れ」「人を殺してはいけない」などが挙げられます。

カントは、人間は何をおいてもこれを絶対に守らなければならず、例外を設けることは許されないとしています。もちろん、これには少々無理があります。後の倫理学者の多くは、一応の義務は行動規範として必要であるものの、何が何でも守るというよりは、基本的に義務を重んじ、行動することが大切であるとしています。

一方、イギリスのベンサムやジョン・スチュワート・ミル(1806-73)などが唱えた功利主義の原則があります。

功利主義では“最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the greatest number)”を目標としています。ものごとの帰結、つまり結果を重視する考え方で、最終的に「最大多数の最大幸福」を究極の目標とし、そのための行為を「善」、すなわち正しい行為とみなします。

実際、私たちは常に「幸福」という結果を求め、お金や食べ物、愛など、幸せをもたらすものや手段を「善」と考えます。非常に受け入れやすい考え方と言えますが、最大多数を優先すれば少数者は除外、排除されます。

最大多数が幸福になるためには、少数の人は不幸になってもよい、功利主義には、そんな格差を助長する危険性が秘められていることも確かです。極端な例としては、いじめをされている不幸よりも、いじめをしているものの幸福が大きければいじめを肯定します。

われわれが日々直面するのは、一人ひとりの患者に対する医師としての義務と、集団としての患者集団に対する義務の対立です。カント的倫理観では医師は個々の患者の利益を可能な限り追求するべきです。

しかし、カントの倫理観が成立するのは、資源に限界がないという前提が成り立つ場合のみです。

1人の命の維持に年に数億かけてもいいでしょうか?

厚労省も高齢者の癌治療に抗癌剤を使用することに意義があるかという検討を始めています。現在は多くの組織は決められた経済的範囲内で、質の高いケアを提供するという二重の使命が要求されるようになり、カント的倫理感のみでは成り立たなくなっています。

医療ではエビデンスに基づく医療(evidence based medicine:EBM)は功利主義に基づくものと理解でき、公衆衛生学や救急におけるトリアージ(患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと)はこの発想が根底にあります。もちろん医療政策を含めた政治に関してもその立場にあります。

カントの倫理観では、治験の際にプラセボ(偽薬)群に当たったと分かれば治験から脱落することになるかもしれません。そうなると新薬の開発が進まず、未来の多くの患者の治療が滞るかもしれません。

一方で、カント的倫理観が行きすぎると、ヒトの命がかかっていると言えばどんな要求も満たされなければならないという過剰な要求を起こすリスクもあります。

救急外来に深夜に風邪症状で受診するような患者にとってみれば、明日は仕事があり受診できないし、熱も高く一刻も早く受診したい。しかし、病院では救急搬送患者が連続しており、当直医師のみでは対応しきれない状態ということがあります。

[図2]医師が直面する対立:カント的倫理観と功利主義の対立

そこで[図3]のケースを考えてみて下さい。功利主義が行きすぎると、次のような費用便益分析(=コスト・ベネフィット分析の研究結果)すら正当化されてしまいます。

[図3]1人 vs. 5人どちらを助けるか?

有名なフィリップモリス研究を挙げてみましょう。チェコでたばこの消費税率を上げる提案があった時、アメリカの煙草会社がチェコにおけるたばこの費用便益分析を行いました。

その結果、チェコ政府は国民の喫煙で得をすると結論づけました。[図4]のように費用(コスト)と便益(ベネフィット)を比較した結果、フィリップモリス社は「市民が喫煙することで、チェコ政府は得をする」という、驚くべき結論を出したのです。つまり、「喫煙者が増えると肺癌で早死にする人も増えるから、そのぶん政府は得をするよ」と言ったわけです。

[図4]喫煙は善か悪か?(フィリップモリス研究)

他にも車のリコールの費用対効果分析で、リコールの費用の総額(1億3,700万ドル)の方が、一定の割合で死者が出た際に保証金を支払うとの前提にした場合(4,950万ドル)よりも、かえってコストが高くつくといった試算になりました[図5]。この分析から、欠陥を放置したため、裁判では多額の賠償金を支払うことになったと言われています。

[図表5]車のリコール費用便益分析