謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
5
「私は東京から来たムナカタです。これからホテル・パラシオまで行くのですが、あなたは、ポルトではどちらへお泊まりですか?」
「えっ……? ええ、私はアトランティックです」
一瞬言い澱んだようだったが、女は相変わらず澄んだ声ではっきりそう答えた。
「では、私のところと近いですね。今度タクシーが来たら、よろしければご一緒にいかがですか? ここはだいぶ暑いですし、次もなかなか来なさそうですから」
「ありがとうございます。……それでは、お言葉に甘えてそうさせていただきます。私は、エリザベス。エリザベス・ヴォーンと申します」
エリザベスと名乗る女から、ヒヤシンス系だろうか、さっぱりとした香りが仄かに漂ってきた。しばらく会話を交わしていると、やっと二台目のベンツが駅前に横付けされた。エリザベスという女性は大きな旅行カバンを二つも携えている。宗像の荷物を含めると、トランクだけでは収まりきらず、助手席にカバンを一つ押し込むことになった。
「ホテル・アトランティック経由でホテル・パラシオへ」
ちょうど勤め帰りのラッシュアワーと重なったのだろうか、狭い道はおびただしい車で溢れ返らんばかりだった。運転手は左手を外に出して持ち上げると、大声を発しながら右に左にと、わずかの隙間に車を割り込ませながら前進し始めた。
「ポルトへはビジネスですか?」
タクシーが動き始めると、エリザベスが先に口を開いた。
「いえ、バカンスです。ポルトでは最近、現代美術館も出来上がったようですし、それに少し写真も撮ろうかと。あなたは?」
「私は友人の結婚式と披露パーティーに出席いたしますの。それと、せっかくの機会ですからプチ・ヴァカンス。海と魚とポート・ワインで……」
そう言いながら女は微笑んだ。さらに続けて、今度は少し言い澱むと神妙な顔をした。
「でも、式とパーティーは明後日ですので、明日はポルトで何か見たりしませんと……」
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商