謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
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「それでは隣のカジノ・エストリルも、元はといえばロイドが所有していたのですか?」
「もちろんそうです。カジノ・エストリルは、以前、ロイド財団が所有していたようですが、十年前に新しい法律ができましてね。カジノを経営する権利は純粋な国内企業に限られ、外国企業が締め出されたのです」
「なるほど……。だからカジノ・エストリルにもコレクションの絵が飾ってあるのですね?」
「ご覧いただきましたか? 常時は数点くらいのようです。カジノの美術品は全てこちらから運び込んでおりまして、定期的に取り替えているはずでございます。ですから、美術館の収蔵品もカジノの絵もあとわずかな命ということでまことに残念です。それに、美術館の方は、直接公園側から入れる高級ブティックに改装されるとお聞きしております。何しろここは世界中からお金持ちのお客様が大勢いらっしゃる場所ですから。ところで宗像様、ロイドさんとはご関係がおありなので?」
「いいえ。でもありがとう、おかげでいろいろなことが分かりました」
宗像はポケットから五百エスクード札をつまみ出すと、握手をしながら掌に潜ませ、そっとコンシェルジェに手渡した。
「恐れ入ります宗像様……こんなにたくさん。ホテル・ライフをお楽しみください」
慇懃な感謝の言葉が肩越しに聞こえた。そうか、それであのカジノに美術館所蔵のフェラーラの絵があったのだ。わずか二十八枚しかないはずの絵なのに、またもやロイドが絡んでいるとは驚きだった。
このエストリルでフェラーラの絵が突然眼前へ現れ出た思いもよらぬ現実。もはや引き返せそうにないフェラーラの世界に、恐ろしい速さで引き込まれて行く自分の姿に宗像は強い戦慄を覚えた。
ほんの最初は、素晴らしい出来栄えの絵と、そこに描かれた美しい女に対する興味から始まった。しかしそれはあらぬ方向へと転がり始め、さらに見えない多くの疑問まで加わって膨らみ始めた。
フェラーラとアンナ。それにコジモとロイド財団までもが濃密に関係している? ロビーを行き交う人たちを見遣りながら、宗像はチェック・アウトの時間が迫っていることに気がつき、レセプションに車の手配を頼んだ。
「タクシーを一台。サンタ・アポローニア駅まで」
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商