木刀侍

北京城飯店は、「天安門広場」から東西に延びる「長安街」に面している。

広い敷地が中国風の鉄格子で囲われた高級ホテルで、敷地の東西南北に門があり、「長安街」に面した南門が正門となる。

正門前を大勢の中国人が取り囲んでいるが、北京城飯店には、外国人と中国政府の要人しか入ることはできない。正門を中国人民軍が厳重に警備し、鉄格子の中を覗こうとする者や正門に近づこうとする者を、人民軍兵士が怒鳴りつけるような口調で追い払っている。

正門前を取り囲んでいる大勢の中国人は、濃紺や深緑色の人民服を着た男ばかりの群集である。集まっている男たちの顔に笑顔はない。怒りに満ちた目で、北京城飯店の正門を睨みつけている。

一九七二年の春、北京城飯店では、日本政府代表団と中国政府との日中国交正常化交渉が行われていた。日本側の代表である佐々木勇とその交渉団は、北京城飯店に滞在していた。

そのため、北京城飯店の正門前には、日本政府との国交正常化に反対する大勢の中国人が押しかけ、群集となって抗議をしていた。抗議のプラカードを掲げたり、叫んだりするわけではない。ただ、集まって成り行きをうかがうことで抗議をする「静かな群集」だ。

文化大革命のこの時代、中国政府は厳しい言論と思想の統制を行っていたが、日本との国交を回復することに反対する、この「静かな群集」の抗議には寛容であった。

それほど日本を嫌っている者が、中国政府の内部に多かったのだ。

北京城飯店の正門に、黒い高級車がゆっくりと近づく。
中国人民軍の兵士が、正門横の詰所から出て来た。

劉温来は車の後部座席から、近づいて来る人民軍兵士を見ていた。深緑色の制服に、赤い星がついた制帽をかぶっている。兵士はゆっくりと歩いて車に近寄る。

運転手が左側の窓を開け、近寄って来た人民軍の兵士に向かって叫んだ。
「人民委員の車だ。門を開けろ」
運転手がハンドルを回して窓を閉めようとしたそのときだった。

ヒューーーーーッ

という風を切る音が聞こえた。

何かが飛んでくる音だった。