木刀侍

油が飛び散り、炎が生き物のように這って目の前に広がったが、劉温来の体に炎が襲いかかることはなかった。

劉温来は自分の前に立ちはだかった黒い影を見た。

黒い背広を着た男の後ろ姿が見える。人民軍の制服を着ていないので、日本側の警備だろうか。背広の肩には、飛び散った油で小さな炎が燃えているが、その男は劉温来を守るように群集に向かって仁王立ちをしている。右手にもった木刀を斜めにさげて立っているその後ろ姿が、劉温来には、まるで「侍」が立っているように見えた。

侍はくるりと向き直ると、肩に炎をつけたまま劉温来に近づいた。

「こちらへ。急いで」

中国語でそう言うと、侍は劉温来の腕を取り、力強く体を引き上げた。

劉温来は腕をひっぱられて立ち上がると、脇を支えられながら走り、北京城飯店の正門に向かった。正門までの三十メートルを走る間にも、火炎瓶が次々に飛んで来る。

侍は劉温来をかばい、木刀で火炎瓶を打ち落としながら走っている。

侍が火炎瓶を叩き落とすと、ガチャ―ンッと瓶が割れる音と爆発音が聞こえ、二人の足もとに炎が広がる。ズボンの裾に炎が飛び散るが、侍はものともせず、劉温来の脇を抱きかかえて走っている。二人は正門に向かって、そこかしこに散らばった炎の中をまっすぐに走った。

北京城飯店の正門に着くと、侍が劉温来を門の中に押し入れた。

二人が転がり込むように門の中に入ると、人民軍の兵士がバケツで大量の水をかけた。

ザバーッと水がかけられると、いつの間にか劉温来の黒い人民服についていた小さな炎が、「ジュッ」と音を立てて消えた。全身から白い煙が上がる。服が焦げ、火やけど傷した顔や手の皮膚がヒリヒリと痛む。かけられた水でできた水たまりが鏡のようになって、劉温来の顔を映している。顔が煤で黒く汚れているのが見える。

立ち上がって鉄格子の外を見ると、秘書が炎に包まれ、うずくまったまま燃えている。詰所から出て、劉温来を助けようとした兵士も、炎に包まれたまま仰向けに横たわっている。運転手は車の運転席で、ハンドルに顔をうずめたまま燃えている。