おじさん(母の弟)は舌を嚙んではいけないと、おばさんの口に箸をくわえさせ、押さえ込みます。祈禱師は何やらお経を唱えながら体を震わせて祈っています。こんな異様な光景を見て、私も兄弟たちもそんなことはやめてくれという気持ちでいっぱいでした。

母におばを精神科の病院に連れていくように話し、中津にある病院で診察してもらうことになりましたが、その治療は身内には見せられないということでした。

後で聞くと、頭にヘッドギアのようなものを付け、電気でけいれんを起こさせるという治療でした。私も病院に行って治療後のおばの姿を見ましたが、おとなしくなったその顔には憔悴しきった表情が浮かんでいました。可愛い我が子を亡くした親は、思考回路がショートしてしまうくらいのショックを受けるのでしょう。おばを責めることはできません。

おばの兄夫婦(母の弟夫婦)が二駅先の町に住んでいて、しばらくおばを預かることになりました。一歳の息子(輝光)はうちに置いていきましたので、それもおばさんは耐えられないようでした。場所を移しても狂乱は収まりません。

ある日、私が輝光をおばさんのもとに連れていくことになりました。そのころ私は小学校六年生くらいだったと思います。

輝光をおんぶして中津駅まで歩き、汽車に乗りました。汽車の乗客から声をかけられましたが、何と言われたのか記憶にありません。「小学生なのに感心だね」とか、ちっちゃな子供をおんぶしている私の姿を見て、何か家庭の事情がありそうだと思われたのかもしれません。

どこか憐れみのような目で見られていた気がします。二駅先の駅からおじさん宅まではかなりの距離です。駅から川の土手を通り、ようやくたどり着きました。文子おばさんは喜んで輝光に乳を与えていましたが、目はまだ正気ではありませんでした。

いつ再発するかもしれないという心配がある中、文子おばさんの夫が遠洋トロール漁から帰り、おばさんを沖縄に連れて帰ることになりました。私たち家族はほっとするとともに、その後のことが心配になりました。沖縄に帰ってからは症状は出なくなったようですが、しばらくは音信が途絶えていました。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。