2月14日(日)

ブルックナー 交響曲第5番

バレンボイムの指が動き、低弦のピチカートが始まると、私の記憶は50年前に戻った。私の初めてのブルックナー体験であった。何か巨大なものが近づいてくる感じだった。それ以来、ライブでもレコードでも、ブルックナーは度々聴いた。所縁のリンツ、ザンクト・フローリアン修道院へも、2度訪問した。

今夜のバレンボイムの演奏は、第2楽章が特に心に残った。

弦のピチカートに乗って歌われるオーボエが美しかった。バレンボイム氏は腕を下ろし、オーボエ奏者の歌うに任せたように見えた。私にはそのように見えた。

終演後も拍手がやまず、楽団員が引き上げたあとも聴衆は拍手を続けた。これは昨夜も同じであった。そして昨夜と同じようにマエストロはステージに出て来た。昨夜の様子を知っていた私はステージの袖に進出し、マエストロ・バレンボイムと握手することができた。握手と言ってもピアニストの大切な手、握りしめる訳ではない、掌と掌のタッチである。手は、普通の大きさと思った。指が特に長いとも感じなかった。氏は体形そのものがふっくら形であるが、手も肉付きがよく、柔らかかった。美しい音はこの指から出るのであった。クラシック音楽に触れて60年、もう、思い残すことはないと思った。

1962年4月30日、私はブルックナーの第5交響曲を聴いている。

場所は上野の東京文化会館、

オイゲン・ヨッフム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)、

記録によると当日のプログラムは、
モーツァルト 交響曲第38番
ブルックナー 交響曲第5番

この楽団の初来日だった。

東京文化会館でのコンセルトヘボウ・オーケストラの演奏はもう一つ聴いている。同じくヨッフムの指揮であった(というのは、ベルナルト・ハイティンクを聴いた記憶がない。ハイティンクを聴くのは、数十年後である)。それがどの日であったか、思い出すことができない。ブルックナーの5番があまりにも強烈であった。

このときのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団招聘は、朝日新聞によるものだった。当時私の近くにいた女性がどのようなつながりか朝日の文化部幹部を知っていて、そのつてでチケット(招待券)を入手してくれた。一夜は二人で行ったが、もう一夜はエクアドルの駐日大使夫妻も一緒だった。大使からはエクアドルの民族音楽を収録したレコードを頂いた。

その女性は私より六つ年上で、短い期間でコオという子供を一人残し、私から去った。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。