Ⅱ 『古事記』を歩く

── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論

四 古代の情報基地・神戸
── 弥生系高地性集落と埋められた銅鐸の謎

「神戸」という町の名は、素人の勝手な想像をお許し願えるならば、「神の国=銅鐸王国への入口」という意味を持っているのではないだろうか。淡路島を目の前にした、ここ五色塚古墳(神戸市垂水区)の墳頂に立った実感である。

小壺古墳という陪塚を伴う復元古墳・五色塚(別名千壺古墳)は明石海峡の通行権を支配する有力豪族の墳墓と思われる。その被葬者は、自分の承諾なくしては一隻の船たりともこの海峡の通行を認めない、と無言の圧力をかけているようだ。銅鐸圏と銅剣・銅鉾・銅戈(どうか)圏(武器型青銅器圏)の領域を分けるのがこの明石海峡である。

『記紀』に現れる国生み神話の東限も淡道之穂狭別島(アハヂノホノサワケノシマ)=淡路島となっている。明石海峡が軍事生命線であることを証明するように、周辺部瀬戸内海沿岸には芦屋市山手にある会下山(えげのやま)遺跡に代表される弥生系高地性集落が点在する。

会下山遺跡は阪急神戸線の芦屋川で降り、高台へ向かって車で七、八分ほど。標高二〇〇メートルの地点、ちょうど山手中学校の裏手の山頂にある。そこに立つと右手は木立に遮られてはいるものの、眼下に淡路島と明石海峡を俯瞰でき、左手は神戸・大阪はもとより晴れ渡った日には、はるか紀淡海峡までも望見できる好立地に営まれていた。

「山上の村」という見方も一部でなされているようだが、生活施設として考えるといろいろな難点を伴う。出土遺物から総合的に判断すると、弥生期の軍事的な緊張状態の中で築造された常駐の見張り場、及び危急を知らせる狼煙(のろし)所を兼ねた防衛上の拠点と言うことができようか。

それを裏付けるように、七つの竪穴住居跡や祭祀場・倉庫・土壙墓・焼土壙の周辺から、鏃(やじり)を中心とした石器・丸瀝・鉄器等が出土している。中でもユニークな出土遺物として、わが国唯一の出土例である漢式三翼銅鏃が含まれている。

また、一四個の銅鐸と七本の銅戈が一括出土して話題を呼んだ神戸市灘区桜ヶ丘は、調査報告書によると旧地番が「墓ヶ平」で、通称「神岡」と呼ばれていたという(兵庫県文化財調査報告書・桜ヶ丘銅鐸銅戈の解説)。出土品は現在神戸開港百周年を記念して開設された神戸市立博物館(中央区京町)に常設展示されている。その銅鐸群の中には弥生期の農耕文化と生活の一端を窺わせる絵画を有するものがあり、歴史教科書の口絵に採用されているから、私たちにとっても馴染み深いものである。

銅鐸については祭器説や楽器説など、さまざまな見解が主張されているが、その用途については謎に包まれている。小さなもの(五、六センチメートル)から巨大な鋳造品まで、いくつもの発展段階を経ているようだ。

古文献に関しても出土報告が一、二点見られる程度で、ともに近畿を基盤としていながらも、『古事記』『日本書紀』には記事がほとんど見えない謎の青銅器である。併せて出土した七本の銅戈については、銅鐸文化圏における異例な出土品として論議を呼んでいるが、形態的には和歌山から出土した銅戈と合わせて、「大阪湾型銅戈」として特例的な扱いを受けている。

それらが一括して埋納されていたことに関しては、いくつかの推論が提出されているが、政治的支配権力の交替があったことを暗示しているのではないだろうか。九州からの先遣隊としてすでに登美比古の陣営にいて、神武側に馳せ参じたという説話の主・邇芸速日ノ命(ニギハヤヒノミコト)ともからめて、興味深い事実を内在している。

[写真] 桜ヶ丘(神戸市灘区)出土の銅鐸と銅戈
※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。