Ⅱ 『古事記』を歩く

── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論

三 東征経路を辿(たど)る・2
── 速吸門=鳴門海峡説を考える

瀬戸内海の本州側と四国側には、それぞれ会下山(えげのやま)遺跡(芦屋市三条町)や紫雲出山(しうでやま)遺跡(香川県三豊市詫間町)など弥生系高地性集落が要所要所に点在している。

その防衛網をかいくぐって東征軍が異質な政治・文明圏である銅鐸圏に攻め入るには、相当の障害・困難が予測されよう。

明石海峡を通過しようとすれば、ことごとく退けられる過去の経験があり、それを避けるべく突破口として選択されたのが、天然の防衛線としての速吸門=鳴門海峡だったのではあるまいか。

九州の南部を発進して大阪湾へ突入するまでの間に、三つの海峡が存在するが、政治的・軍事的理由によって明石海峡は除かれる。また地理的理由によって豊予海峡は当たらない。残る一つの海峡・鳴門海峡は地元の水先案内人を付けなければ、容易に渡ることが憚られる海の難所である。

戦闘勢力を決戦の時まで温存しながら、手強い銅鐸圏の中枢へ攻め込もうとすれば、過去何度もの体験から多くの犠牲が目に見えている明石海峡突破作戦よりも、鳴門海峡通行は東征軍にとって一種の賭けというか奇襲戦法であったに違いない。

* * *

──追記── 紫雲出山(しうでやま)遺跡

桜の季節ともなれば、さぞ賑わうことであろう。

自然がつくり出した屛風絵とでも表現したらいいのだろうか、紫雲出山山頂の百八十度のパノラマの見事さは。多くの島々の合間をぬって、大小の船が行き交う。はるか中国山地が雲間に浮かぶ。海上交通の有様はまさしく手に取るようだ。

今からおよそ千七、八百年前の弥生時代ここに高地性集落が営まれた。紫雲出山遺跡は標高三五二メートル、瀬戸内海に突き出た荘内半島突端部の山頂にある。

三二一個の石鏃、また鋭い先端を持つ石槍が出土したことでも分かるように、かなり軍事的な性格を備えた遺跡と考えられている。

瀬戸内海沿岸部に特有な分銅形土製品(呪術用の祭器か)の伴出遺物が発見されているが、土器の形態を見ると、「距離的に近い中国地方のものよりも、遠い近畿地方のものとの類似点が多く」(紫雲出山遺跡概要)とするように近畿の影響が強く見られる。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。