Ⅱ 『古事記』を歩く

── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論

五 銅鐸圏の本拠はいずこ
── 茨木市・東奈良遺跡を訪ねて

『大阪府史』(第一巻)を開くと、「大阪の自然史」の中に大阪湾及び平野部の年代別地図が掲載されている。それによると縄文期・弥生期・古墳期で大阪湾及び平野部はその様相を大きく一変している。すなわち縄文期(約五〇〇〇年~四〇〇〇年前)の河内湾の時代から弥生期後半(約一八〇〇年~一六〇〇年前)の河内湖の時代、さらに河内潟を経て大阪平野へと変遷していく過程が興味深く窺える。

登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)の勢力地盤を特定することは難しいが、いま大阪及びその周辺の地図を検索してみると、東は奈良市富雄、城陽市の富野、また淀川を挟んで反対側には高槻市富田、西端部に伊丹市富松と河内平野の辺縁部に「富(トミ)」の名が付いた地名がいくつか存在する。

そして、その中心というべき地点に銅鐸生産の拠点・東奈良遺跡がある。阪急電鉄(京都線)の南茨木駅から歩いて一〇分くらいの県道沿いに、見るからに貧相な二階建てのプレハブ小屋がある。この外観はどう見てもあばら家としか思えない建造物(現在は資料館が建っている)に、実は古代の宝が眠っている。銅鐸の完形鋳型を含む出土遺物の数々である。

[図] 東奈良遺跡出土の銅鐸鋳型〈平面図〉
(茨木市教育委員会編「茨木の歴史」より)

来意を告げた東奈良遺跡調査現地事務所で、少壮気鋭な考古学研究者・奥井哲秀さんにお目にかかった。小柄ながら、がっしりした体軀の中に、長年東奈良遺跡発掘に従事されてきた現場責任者としての誇りが感じられ、とてもさわやかな想い出として残っている。

国宝に指定された、ほぼ完形に近い流水文銅鐸鎔笵(鋳型)の他、粘土製の鞴口(ふいごぐち)の出土が証明しているように、ここは銅鐸の生産工場だったと思われる。「銅鐸工房」東奈良遺跡で製作された銅鐸が現在三個確認されている。原田神社出土銅鐸(大阪府豊中市)、我拝師山古墳出土銅鐸(香川県善通寺市)、気比出土銅鐸(兵庫県豊岡市)の三つである。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『神話の原風景』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。