第4章 合目的的なる世界

第3項 合目的的世界×将棋

2 真理探求の担い手​

指し手一致率。この言葉には、棋士の指す手が人工知能の計算と一致することを奨励・賛美する響きと前提がある。

真理を現すのが神なら、真理に近い信頼を得た解を提供する人工知能はやはり、神のような顔をしている。“人工知能の見解に近いことは善い(強い)ことだ。”この様な価値観が浸透すれば、棋士は、真理の標榜者どころか真理の探求者としての立場も危うくなる(真理は探求することに価値がある。誰かが将棋の真理を現してしまえば、錬金術の完成が金の価値を殺すように、ゲームの宿命として、競技としての将棋もまた終わってしまう)。

真理(の断片)は人工知能が現し、棋士はそれを最も良く学び理解する者、という序列に収まってしまう。真理探求の使命を人工知能に譲れば、棋士は謂わば、教授の座を降りて、塾の講師になる。

私自身、7年ほど塾の講師を務めた経験がある。教え子の一人は医学部に合格し立派な医師になり、人の命を救いながら未だに私に感謝の意も述べてもくれる。

やりがいもあるし、やりようによっては教授よりも高い稼ぎを出すことも出来る。塾講師が教授より序列として下の仕事であるとは決して思わない。

ただし、自身の経験を踏まえて言うのだが、両者には一つ大きな違いがある。教授は真理探求の担い手として、学問の自由の人権(憲法第23条)を認められる存在である。教授は自ら、真理を探求し、その過程で学問の対象から叡智(えいち) を享受し、それを教え子に教授する。

対して、塾の講師は、受験合格という目的を達する事に職務の本質があり、未だ解決を見ていない学説や私見を教えることは許されない。崇高な真理の探求。その様に漠然としたものを、月謝納付の対価として、多くの親は私塾に望まない。すぐにクレームが来る。

子供に効率的な学習方法を伝授し、正しい(とされる)知識を植え付け、世間で少しでも良いとされる学校に見事合格させるのが講師の務めだ。塾講師が扱う領域は、教育ではなく進学だ。その過当で過剰にシステマティックな受験競争が、日本の優秀な人間とされる典型的雛型(ひながた)を官僚型にした。

「兄は頭が悪いから東大に行った。私は頭が良かったので棋士になった。」

故米長邦雄永世棋聖が言ったとされる粋(いき)な名セリフだが(「馬鹿でなければあんな奴の兄は務まらない」という兄の返しもまた、素晴らしい)、真の叡智の担い手は旧来の評価の枠組みには決して捉えきれないし、捉えられてはならない。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。