第4章 合目的的なる世界

第3項 合目的的世界×将棋

1 顔のない数値

古来、いかなる偉大な名人が君臨していても、その名人との指し手の同一性・類似性で他の棋士の強さが語られたことなどあったろうか。無論、無かった。人工知能の指し示す強さとは、一義的、事ほど左様に一義的なのだ。

それを受けて、 “将棋に於ける強さ”を一義的に序列化するという意識は、もう既にその域にまで来てしまっている。常日頃から政治によく馴染み上下の力学に聡(さと)いメディアが、名人敗戦の結果を受けて、もはや一致率なるものを解説方法として解禁しても差し支えないと判断したとも言える。

伝え手の意識、見る側の意識。順次に伝播(でんぱ)する。序列化はその様にして形作られる。

そもそも、指し手の選択を評価指数に頼り、精度は高いながらも未だ不確かな予測を行っているに過ぎない人工知能の計算結果を “純然たる解”として受け入れる(それを正解・真理とするから、それとの一致が評価されるわけだ)のは可笑(おか)しなことだ。真理そのものでないものと一致していったい何の価値があるのだろう。

が、それを可笑しいと思わせない程に、人工知能の計算には、今や “信用”があることになる(『電王戦シリーズ』のPRが人工知能にブランド価値を付けた)。その可笑しさはさておき、 “指し手一致率”なるものを一度受け入れてしまったら、当然、次の流れとして、人工知能による “棋譜の採点”に入るだろう(ジャッジによる内容への介入)。

指し手一致率が棋士の強さを現すと思う人は、その採点も真に受ける。採点された棋譜の集積はやがて、 “棋士の採点”へ。敢えて対人の戦績は考慮せずに、「指し手一致率」、「局面の評価指数のアベレージ」、「詰みの発見の正確度」等を構成要素として適正な評価関数を定式化すれば、 “人工知能独自の数理的棋士評価”が出来上がるだろう。

今後のものだけでなく、過去の棋譜も採点できるのだから、「古今東西、ソフトが選んだ最も強い棋士は誰だ!?」という選考すらも、幻想的には成立させることが技術的には可能なのだ。棋士像は溶解し、顔のない数値になる。

「違いましたね。やっぱ違うんだなぁ。」

行方尚史八段は、NHK杯テレビ将棋トーナメント(以下、「NHK杯」と表記する)の解説で、自らの予測を大いに裏切った木村一基九段の一手を見て、感嘆の声を上げた。行方八段にとっては、自分が畏敬の念を払う棋士が自分とは別の在り方で存在しているのが本当に嬉しい事である様に、私には見えた。

行方八段はこうも言う。

「棋譜見ただけでその人だって分かる将棋~やっぱり凄くね、やっぱりうん、“木村”って書いてあるような」

棋譜に記号化して表記された指し手にでさえも、科[我々が喪(うしな)った]名前と顔が浮かび上がる将棋。それこそが、棋士ではなかったか。

システムによる商品販売が、消費者の意識の変革も含めて一定の完成を見たとき、最も安く商品を提供できない小売業者はその居所を失った。見る人の意識が目的に特化された数値だけを見つめるシンプルな目線に固まってしまう前に、棋士は、将棋と自らの存在意義を “高度な計算の集積とは別個の形”で示さなければならない。

人々の将棋を見る意識の趨勢(すうせい)が変わってしまったら、棋士は個々の局面の計算の正確性に於いて、日々性能を増していく人工知能ソフトをもう一度明快に上回るほかには、自らの存在意義を示せなくなってしまうだろう。 “かなり計算能力が高い”ことは、人工知能の(準絶対的)計算能力と指し手評価指数の前には、旧来のファンが長きに渡り棋士に抱き続けてきた憧(あこが)れや畏敬(いけい)の念程には、殆ど評価されない。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。