ぼくの地球

異邦人

私はそのことを経験により十分知っている。また彼もそれを予見しながらも、その若さ故に具体的とはいえないまでも、日常において確信的行為の実践を繰り返さない限りは不安に苛まれることになることに、暗に気付いてはいるようだ。

過去を振り返れば、次のように言うこともできよう。そこに溢れかえっている負の集積に何らかの法則を見出すことによってのみ、自らの居場所を(少なくとも暫定的には)確保することができる、と。

異邦人とはそういう存在である。幸運にも時代に恵まれ、知の巨人が彼に権威という名の衣を与えれば、彼は生きながらにして伝説となるが、そのような例を私は知らない。

物事の裏側に潜む、実は三次元的な真実は、期限付き情報のような表面的にそれを解釈することによってしか価値を持ち得ないものに、なぜか完全に凌駕されてしまっている。そしてそれは、私が幼い頃からまったく変わることがなく、そのことは彼にも十分伝わっているようだ。

では果たして、そのような運命に導かれたが故に戸惑うしかない者たちの希望は、どこにあるのか?

まずは実践である。行為の実践。ここには「善の」という形容詞が来なければならない。善の行為を繰り返すことによってのみ生まれ得る新しいコミュニケーション。ここは、少しだけ楽観的になれるところだ。

この後記されるキーワードが、果たして万人に共有可能なものであるのかどうか、日本人である私も彼も、普遍的な次元で解釈できるにもかかわらず、局地的には不安を覚えるところだが、しかし時代にNoを突き付けられたとしても、回帰または循環の実現によって、そこにはまだ救いがあると考えることは可能であろう。

希望は、きっとこの言葉の中にある。

未来

善を信じる者たちは、皆つながっている。だが過度に商業的なメッセージが、たとえそれが的を射ていたとしても、結局は表面的にしか解釈されないため、市場が拡大すればするほど真実が見えにくくなるという、何とも深刻で皮肉な現象(悪循環)を生み出してしまっている。

私も彼も、そのような大きなうねりに対してささやかな抵抗を日々試みているわけであるが、私たち善を信じる者に言葉しか与えられてないのだとしても、たった一つのことを諦めないことによって、きっと「つながり」は維持されていくのであろう。

たった一つのこと。そう、それは夢である。夢は概ね「好き」から始まる。この「好き」という言葉は、言うまでもなく極めて原始的な響きを帯びている。

そしてこの部分だけは、ホモサピエンスという範疇を大きく超えて、人類そのものの根本的な存在理由にもつながり得るものである、と推測することができる。

なぜならば、夢は「好き」からしか派生しないものであり、また夢によって私たちは強くなることができるからだ。