凛として姿勢を崩さず、さすがは片倉小十郎景綱の妻よとほめそやされたが、その表情の下に悲しみと寂しさが滲み出ていたことが忘れられない。思わず、わたくしもお供をと取りすがったとき、お姑さまは「そなたは片倉家の跡取りを産む身じゃ」とおっしゃった。それが、いまだに跡継ぎをもうけることもかなわずにいる。

慌ただしい葬儀の後、重綱さまは代わりに誰を人質として送るか、やつれるほどに頭を悩ましておられる。家臣の誰彼が、「我がせがれを証人に」と申し出ていた。だが、お姑さまの代わりになる者はわたくし以外にいない。もうとうに覚悟はできて重綱さまのお言葉を待っていた。問題は娘の喜佐(きさ)のことである。離ればなれになることを考えると、それだけで胸が痛んだ。まだ幼い。

だが、とわたくしは阿梅姉妹と大八君を思った。父を失い母とは遠く離れ、兄弟姉妹がばらばらになって、三人が遠い奥州の地に根付こうとしている。年が明けて十四歳になった阿梅が妹の阿菖蒲とわたくしの娘の喜佐を、まるで我が子のように大事に慈しんでいる姿に心打たれる。二人とも阿梅を母のように頼っているのが、ふと妬ましいように見たこともあった。

健気なその姿を見ていると、わたくしは江戸に行くことぐらい何ほどのことがあろう、と静かに勇気が湧いてくるのを感じるのだ。喜佐のことは阿梅に託そう。わたくしは何の心残りもなく江戸に旅立つことができると思った。

「お姑さまの代わりに証人を出さなければなりませぬな。わたくしでよろしければ参ります」重綱さまは、瞬きを忘れたように息を呑んで、わたくしをじっと見つめた。

証人差出し制度は慶長十四年に藤堂どのがみずから一門の家臣や四人の子を証人として差し出し、諸大名の藩主や家臣の妻子を、人質として江戸に差し出すことを促したことが始まりだったと聞いている。

重綱さまは大きな目を潤ませて、ものも言わずにわたくしを抱きしめた。

不安と心細さを押し隠して必死に強がっていた気持ちが一瞬で崩れた。わたくしは歯を食いしばって重綱さまの腕の中で声を出さずに泣いていた。

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