第一章 阿梅という少女

十三

世間では共腹切った六名の家士たちを称賛する声の方が今も多い。武士の世は面目が大事である。命を惜しんだと見られることは、何より恥ずべきことなのだ。お殿さまの御遺命とはいえ、公に御触れが出されたわけでもない。しかるべき者が侍って遺命(いめい)を書面に書き記すこともなかった。後々のことを考えれば、武士としてはまずは体面を大事にしなければならなかったのであろう。

それにお殿さまとご家来衆は主従の間柄ではあっても、長年共に戦った信頼できる友がらでもあったであろう。

世の中も平らかになってひと区切りついたな、もうこれ以上生きていても面白いことは残ってなさそうだ、おのれの人生は殿さまと共に終わった、と思ったかも知れない。もしかするとお殿さまも、内心では後を慕って追いかけて来る家臣たちを、心のどこかで待っていたかも知れない。

彼岸でお殿さまに追いついたなら、二代目さまには二代目さまのご家来衆がもう立派に育っています、と言うだろう。死して後もお殿さまと共にあることを許していただきたい、と。

そんなことは重綱さまには百も千も承知のことなのだが、それでも釈然としないものが残るのであろう。

その年の十一月一日、重綱さまは相続をすまされて、片倉家の二代目当主となられたのだった。

そして今年、このたびは片倉家の先代のお殿さまの正室、重綱さまのご生母が江戸でみまかられた。

慶長十四(一六〇九)年から始まった証人差出しの制度で、お姑(かあ)さまは冬の陣が始まる二年ほど前からずっと、証人つまり人質として江戸に留め置かれていた。そんなことで、お姑さまはお殿さまの最期を看取ることもかなわなかった。

色白の美しい人だった。一人江戸に送られるときは、どんなに心細かったことであろう。