“又、男(を)の名は、天太玉命(あめのふとたまのみこと)と曰す。[斎部宿禰(いみべのすくね)が祖なり。]太玉命の率(ゐ)たる神の名は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)[阿波国(あはのくに)の忌部(いみべ)等が祖なり。]・手置帆負命(たおきほおひのみこと)[讃岐(さぬき)の国の忌部が祖なり。]・彦狭知命(ひこさしりのみこと)[紀伊国(きのくに)の忌部が祖なり。]・櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)[出雲(いづもの)国の玉作(たまつくり)が祖なり。]・天目一箇命(あめのまひとつのみこと)[筑紫(つくし)・伊勢(いせ)の両国(ふたくに)の忌部が祖なり。]と曰す。”

伊勢に来た忌部氏が、すなわち磯部氏であり、のちに度会氏になったと思われる。つまり度会氏と荒木田氏は同祖忌部氏から出ているものとする。しかし忌部氏にも諸流があるから、ここには別の問題もあるが、当面はこれを棚上げにする。

忌部氏の祖である天日鷲命が伊勢国造になったことは、これらの記事によっても再確認できる。しかし内宮を祭祀する荒木田氏の家祖は天見通(あまのみとおし)命であり、大鹿島命の孫という関係にある。

すなわち荒木田氏は、鹿島神宮を祭る中臣氏と親しい間柄である。このため忌部氏と中臣氏の宗教上の確執は平安時代まで続いて、仲の良くない両氏であった。

 思うに、最初の伊勢国造であった忌部氏は、磯部氏から度会氏になったころから伊勢神宮に関与してきたが、のちに中臣(藤原)系の荒木田氏がその祭祀を受け持つようになったため、元の神宮(内宮)とは別に外宮を創祀し、忌部氏後裔の度会氏が外宮を祭祀したのではないか。天日鷲(わし)命は、天日別(わき)命に神名を変えたのであろう。

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【第1回から読む】複雑な歴史の重なる神々の土地「伊勢」その“恐ろしさ”の所以は…