黒き尉面

「服の加減は」 

「誠に結構。どちらのお茶で」

「上林の『無上』でございます」

「近頃、丹波より宇治に移られて、茶園を開かれた上林久重(かんばやしひさしげ)殿か。丁寧に摘まれた風味は見事でございます。七茗園と遜色ございませんな」

室町幕府に保護された「宇治七茗園」と異なり、丹波より宇治に移り茶園を開いた上林久重とその子等は、こののち千利休の指導により信長・秀吉に取り入れられ、徳川家康は上林家を宇治代官とし、将軍家の茶の管理を命じたのである。

朝日が庭に差し込む頃、茶会は終わった。雪は既に解けている。春の淡雪であった。

「宗易殿。誠にお世話になりました。貴殿が水屋におられなければ、宗達様をもてなすなど、到底叶いませんでした。感謝申し上げますぞ」

「お疲れ様でした。こちらこそ、お師匠様の手助けが叶い、幸せ者でございます。昨夜おりき様が『冷えてきましたから、明日は雪かもしれませんね』と話されなければ、笠を置く事に気が付かない所でございました」

「では『笠』は、おりきの手柄じゃな」

三郎は、二廻り年下の妻りきをみやって微笑んだ。

「とんでもございません。部屋の間温(まぬく)めの仕方や、席入りの『釡音』の拘(こだわ)りなど、数多くの事柄を女の私に教えて頂きました。私の方こそ、宗易様に感謝申し上げます」

千宗易(後の利休)はこの時二九歳。茶の湯形成の真っ只中である。大永二(一五二二)年、泉州堺(現大阪府堺市)で生まれた。父与兵衛は、魚問屋を営む中流の納屋衆(倉庫業)であった。

与四郎(宗易)は一五歳の頃、父に尋ねた事があった。

「父上様、生まれ故郷ではございますが、この人口八〇〇〇人程の小さな湊町が、これほど繁栄している理由は何なのでしょうか。幕府の実権者細川高国様が対明貿易の拠点を堺と定められた後、政治の中心も堺に移って参りました。その為『堺幕府』と揶揄する者もいるほどでございます」

「与四郎よ、先ず一つはここの地勢じゃ。淡路島と和歌の浦、友ヶ島で外海から隔てられた穏やかな海。陸路四里で斑鳩(いかるが)に行ける。淀川と大和川で平城京、平安京と言った古代の町々と船で直接結ばれている。

二つ目は、鉄じゃ。元々この地域は、近くに『難波宮』がおかれたこともあった為、鉄を鋳造する技術が大陸から早くに伝えられておった。数多くの古墳建設などの工事用に、大量の鍬や鋤が作られた。その技術が刀鍛冶となっておる。それが『河内(かわち)鋳物師(いもじ)』と呼ばれる技術集団となって全国に広がり、奈良・鎌倉時代の大仏や、全国各地の梵鐘となっていったんじゃ」

種子島に鉄砲が伝わるのはこの七年後。そのわずか二年後には、堺で鉄砲が大量生産されるのは、この様な下地があっての事。現在でも堺は、「製鉄の町」であり「刃物の町」でもある。