受傷した日を境に私は毎日のように初めの1ヵ月は集中治療室へ、一般病棟へ移って2ヵ月、子どもたちに会わせるために、夫に毎日逢いたい一心の寝ずの日も、彼らが眠たそうな日でも、習い事が終わった夜でも、夏休みが明けた後の下校後でも、足を運んだ。受傷後3ヵ月したら転院となり、転院2回繰り返すも週5日は、通った。夫が帰宅するまでの1年間。通い始めてから長男はしばらくして、

「お母さん大嫌い!!!」

と、私を嫌い始めた。お母さんは、怒るし、勝手に病院ばかり連れて行く、と。

ちゃんとした食事が作れるようになるには、3ヵ月かかった。その3ヵ月は特に嫌われていて、学校では頑張って、帰ってきてもゆっくりもさせてもらえない間で長男の意思は無視。2学期が始まると夕方から出発し、車内で揺られながら寝て、病院に着いたら起こされ、病院で宿題させられ、持参した弁当を食べ、帰宅したらようやく風呂。就寝は22時以降。

大嫌いになる。当たり前だ。

看護師を辞めたことを一番悔やんだのも長男。漁師も看護師も長男が生まれる前から変わらない。長男が生まれて見てきた日常からどんどん変わってく。心が大人でもついていくことが必死なのに、物事が理解できる年齢の長男には、辛かっただろう。親の都合で我が子を振り回したが、付き合ってくれた。当時三男は1歳の誕生日を迎えたばかりで、歩けもせず、おんぶ紐……。

私は帰宅したら病院から預かったバスタオルなど諸々と子どもたちの体操服など洗濯して干すのだが、正直ピリピリしていて、言動にゆとりがない。

きっと長男は宙ぶらりんのまんま登校していたのだろう。いつだったか長男と私が喧嘩して、大号泣させた日があった。

「寂しいし、辛いよ……どうしてお父さんなの? なんでこんなお父さんなの……。なんで歩けなくなったの……。我慢をたくさんしてきた。毎日毎日寂しい。家に帰ってもお父さんいないし、お母さん泣いてるし、僕だって辛いよ……。お父さんの代わりに頑張ってるよ……」

 

【前回の記事を読む】頑張っていないのは私だ…。夫の病気に嘆くより今を生きることを決意したときに感じた