目が覚めた。半間の窓の外は薄暗い。部屋の中には座机と段ボール箱以外、何もない。夏生は、一人きりの下宿生活が本当に始まったことを実感した。何をしようが自由だが、何をするにも全て自分で用意をしなければならない。生活の歯車を一つひとつ噛み合わせていかねばならない。

薄暗さの中で膝を抱えていると、ザッ、ザッと音が聞こえた。誰かがサンダル履きで歩いている。その音がだんだん近くなると夏生の部屋のドアにはめられた型板ガラスに人影が映った。音が止まると、人影はトントンとガラス板をノックした。誰だ、夕方に。

新聞の勧誘か。新興宗教か青年政治団体か。上洛前に、やはり学生時代を京都で過ごした高校の恩師に聞いた話がチカチカと浮かび上がった。

「はい」

ノックに応えて夏生は立ち上がった。もう一度「はい」と弱々しく返事してノブを回す。ドアの外には細身の青年がいた。五つの部屋の前には幅二メートルほどのコンクリートの「廊下」があり、共同の洗濯機や簡単なシンク、そして下宿生が使うピンクの公衆電話が一台置かれている。その「廊下」の電灯に照らされた青年は耳が隠れるほど髪が伸び、頬がこけていた。

「突然ごめんなぁ。俺、隣の部屋の西山いうねんけど、自分は今日越してきたん?」

西山と名乗った青年はニコニコと笑いながら、相当の早口で問うてきた。関西では「おまえ」を「自分」というのかと夏生は西山の関西弁を聞いていた。

「はい。無藤です。無藤夏生といいます」

「そうかぁ。そんで、自分、晩飯食うたん?」

「いえ、まだですが」

西山は、ほんならと夏生を晩飯に誘った。部屋には鍋や備え付けのガスコンロがあったが、野菜や麺類など、腹に入れるものはなかった。突然の訪問だが、その口調に強引さを感じさせない西山に夏生は好感を持った。西山には人の懐にどかどかと入ってくる田舎臭さがなかった。

「中華でええか?」

西山は夏生に微笑むが、夏生の返事を前に「ほな、行こか」と踵を返して歩き出した。

「ほんまは、チャリで行くとええんやが、自分はチャリないやろぉ」

歩きやと十分ほどやと促しながら、西山は鉄製の階段をパタンパタンと下りていった。 下宿を出て、二人は西大路通りと交差する街道を東に向かって歩く。並んで歩く西山が煙草に火をつけ一息煙を吐いた。夏生は煙草を吸わないが西山の煙が目の前で広がっても何とも思わなかった。

「西山さんは何年生なんですか」

「三回生やねん。哲学科におんねん」

西山は煙草を挟んだ指で頭を掻いた。

「自分はいくつになんの」

「一年ブラブラしてたのでもうじき二十歳です」

「そうかあ。ちゅうことは、今年は一九八○年やさかい自分は六○年生まれか」

「そうです」

「まあ、二十歳超えたらおっさんやで」

西山は煙草を吸いながら成人式には出なかったことや歌手の山口百恵が婚約と引退を表明したことが悲しいと加えた。

西山が誘った店は、天国飯店という十二、三人入れば、満席になるカウンターだけの小さな中華料理屋だという。この三月まで餃子六個入り一皿百円だったのが、採算が合わなくなり百二十円になったという。学生や肉体労働者が主たる客筋なので、どの料理も安くて腹がいっぱいになると西山は力んだ。店が見えてくると、最後に西山は「俺なあ、あっこでバイトしてんねん」と結んだ。