第一部

三男 敏三 ── 祖父母に寄り添った男

そんな中で敏三は、父と政二夫婦を助けながら働き、千歳町の支店も伝馬町の本店と同じように順調に繁盛していった。しかし、政二の妻・さかゑが結核に罹り、まだ幼い安子と和司の二人の子供を残して早逝してしまうと、政二は、両親の許しを得て、二人の子供を母・たまに預けて、軍人になるため上京して行った。

寛一郎が三十五歳で亡くなり、正吉は蒲田の家から松竹に通い、忠司も音楽大学に進み東京に出ていった。六男・八郎は浜松商業卒業後、沼津のくず鉄業社に住み込みで働きに行ったので、「尾張屋」の男子は敏三だけになった。敏三は、両親とともに「尾張屋」の仕事に本腰を入れざるを得なかった。結婚した妻・みつゑとともに、店の仕事に精を出していった。

時代は、日華事変、日中戦争へと戦況が進んでいた。木下家の兄弟たちも、それぞれ徴兵に取られていく。一九四〇(昭和十五)年十二月には恵介が、翌年一月には忠司が、中国へ出兵して行った。八郎はそれより早く、二十歳になった一九三八(昭和十三)年、甲種合格して中国に出兵して行った。

そんな中で、体が弱かった敏三は徴兵検査で不合格だったが、両親や「尾張屋」を守るためには、かえってよかった。長女の艶子が生まれた敏三は、妻とともに両親と浜松で終戦を迎えたのである。

恵介は二十八歳のとき補充兵として名古屋で入隊した。一九四〇(昭和十五)年十二月十六日、恵介は名古屋駅まで行進して、そこから汽車で広島へ、そして輸送船で中国上海へ向かったのだが、このとき敏三は浜松から名古屋に行って、恵介を見送っている。