第一部

六男 八郎 ── 親愛なるわが父

祖父・周吉が亡くなって二か月後、政二と房子は正式に離婚届を出した。房子三十二歳のときである。恵介は、自分より九歳も若い房子が自立のために、美容師の資格を取ることに賛成して、美容学校の学費を出している。何もかも順調にいっていた穏やかな日々が過ぎていった。

しかしあの日、静かだった辻堂の家に恵介の怒声が飛んだ。八郎はなぜ兄・恵介の逆鱗に触れたのか。辻堂の家で何が起きたのか。

恵介と八郎双方の立場に立って書いていくことにする。

〈恵介〉

六歳下の弟・八郎が辻堂の家に来て七年が過ぎた。映画作りのためのこまごまとした仕事、俳優の家に届け物をしたり、ロケで留守にしているときに撮影所との連絡を取ったり、銀行からの金の出し入れ、客の応対など数え上げればきりがないが、八郎はよく仕事を覚えてやってくれた。

撮影所では、グズでバカが嫌いでよくスタッフに怒ってしまい、家でも目につく所が汚れていたりすると、ときどき八郎に当ってしまうことがあったが、僕の指示通りに献身的に尽くしてくれる良き弟だ。

八郎はもう三十五歳を過ぎている。僕は結婚など望まないが、八郎には兄の責任として嫁を探さなくてはならない。忠司のように自分で見つけて、さっさと結婚するような男ではなさそうだから。

父母の墓参りに円覚寺に行くとき、立ち寄る北鎌倉の寿司屋「香煎」の娘はどうだろう。綺麗で気立てが良さそうだし、二十八歳だがまだ結婚の予定はないと聞く。所帯を持っても、八郎にはこのまま仕事を続けてもらおうと思う。

〈八郎〉

自分は、二十五歳のときに徐州で敬愛する政二兄の奥さん房子嫂さんに一目惚れした。だからと言って、どうなるものでもないことはわかっている。しかし、この気持ちに蓋をしたまま、他の女性を愛したり結婚したりはできない。ときどきとても苦しくなるが、今までと同じように嫂さんを陰で支えて力になっていられればそれでいい。

結核で入院した政二兄が患者の女性と不倫をし、嫂さんは精神的にずいぶん辛い思いをしたが、半年前に離婚届を出した。

恵さんは、嫂さんが自立するために美容学校に通う費用を出してあげ、長崎から誠司と廣海を戻して、嫂さんと子供たちが一緒に暮らせるように東京の目黒に家を借りた。嫂さんのことを大切にする立派な兄貴だ。

自分は今まで通り、恵さんの仕事を手伝いながら、生まれたときからそばにいて、ずっと私に懐いている忍の成長を見守りたい。武則も忍も、名監督で金持ちの恵さんの子供として成長すれば、将来はきっと幸せな人生が送れるだろう。

恵さんが私の嫁として「香煎」の娘の話を持ってきた。しかし、私は嫂さん以外の女性には関心がない。はっきり断るためには、今の私の気持ちを恵さんにすべて話してわかってもらおう。

「恵さん、僕はずっと前から嫂さんに想いを寄せています。しかし、政二兄がいる以上、たとえ二人が不仲であっても、自分の気持ちは出さずにしまっていました。しかし、恵さんが縁談を持ってきたのではっきり言います。どうか、このまま独り身でここに置いてください」

兄・恵介に自分の本心を全部話して、今はすっきりしている。