第一部

祖父母 (周吉とたま) ──尾張屋のはじまり

木下家のことは、祖父母なくしては語れない。どんな人だったのかを明らかにしたい。その前に曾祖父・木下治右衛門(仏の治平)のことについて、わかっていることだけを記す。

曾祖父は、愛知県知多郡名和村(現在東海市名和町)出身で大きな養魚場を営む裕福な家で育った。村の青年たちが遊びに来ると喜んで酒をふるまい、賞品を出して相撲を取らせたというほど相撲好きである。相撲が終わると「好きなだけ呑みなさい」と、酒屋の通い帳まで出して青年たちに持たせた。

しかしあるとき、ひどい暴風で一帯が大きな被害を受けたので、その救済策のために県から調査の役人が来た。治平の養魚場も洪水に流されて大損害だったのだが、いつもの笑顔で「まあまあ家族みんなが無事でよかったです」と、人の良すぎる受け答えをしたらしい。それで、当然もらえるはずの見舞金がもらえなくなってしまった。

祖父・周吉は治平の三男である。そんな曾祖父だったので周吉がまだ幼いうちに、相当あった身代をすっかり失くしてしまった。周吉は、ろくに小学校にも行かず日雇いの人夫仕事に出て、白米の御飯はめったに口にできない貧しい少年期を送った。

一方、浜松出身の祖母・たまの実家は八百屋で、たまは鈴木栄太郎の長女として生まれた。子供の頃から頭が良くて、いつもクラスで一番か二番であった。浜松で初めて帽子を作る会社ができたとき、帽子の技術を習得するために、学校で出来の良かった三人の娘が選ばれたが、その一人がたまで、女工さんたちに教えるために東京へ行っている。

苦労して育った周吉とたまに、どのような縁があったのかはわからないが、明治三十二年六月十日、周吉二十四歳、たま二十歳のときに結婚し、名古屋駅近くで漬物や佃煮を商う小さな店を始めた。たまは、曾祖父の治平に「おたまさん、おたまさん」と呼ばれてずいぶんかわいがってもらった。あんなに良い人はいなかったと、のちに子供たちに曾祖父のことを話している。