第一部

優しさと弱さを併せ持った政二という人間は、家族を守ることはできなかったけれど、五十一年間の人生を精一杯生きたのだろう。そう思いたいだけなのかもしれないのだが。恵介の下を離れて、静岡に行った弟・八郎に宛てた手紙は、当時の政二の様子を知ることができるので掲載する。

政二から八郎への手紙

「長いこと離れ離れになってしまった様子を知る術もなく唯、肉親の愛情だけが過ぎ去った昔の日を懐かしがっているだけです。静岡の方へ行ったと云うことはそれとなく聞いていましたが、その後みなさんは元気で暮らしておりますか。

僕の悪かった行為で子供達に大きな苦痛を与えたことを悔やんでおります。然し恵介にもたれかかった寄存の気持ちを去って、独立の自由を勝ち取ったことは、子供の将来にとっても決してマイナスではなかったと信じています。お互いに独立に向かって邁進してこそ新しい運命は拓けるものと思います。

僕たちお互いにこうなった今日、過去のことは一切水に流して、何時かは手を握り合って暮らしたいものと思います。僕の病気も其の後次第に治りつゝあるとみえて、この所良好な経過を辿っています。

──中略──

そちらもお金に困っているようなことはありませんか。本当は八郎名義の金だから自由にして呉れても良いのですが、知っての通り長い間の病院生活で未だに病院の支払も滞っている状態です。私もなんとか今一度立ち直りたいと念じておりますので、出来たらそちらで受領後私宛に送金してもらいたいと思います。

突然に便りして僕の勝手なことばかり書きましたが、なんだか近い内に引揚組は引揚組で大らかな気持で逢える様な気がしてなりません。では暮々も健康に注意して下さい。

八郎様 政二 六月十日」

「送金を有り難う。本朝いただきました。さる十五日から又床に就くようになってしまいました。この夏は起きられないでしょう。皆さんは元気に暮らして下さい。どうも有り難う御座いました。

八郎様 政二 六月二十六日」

死期が迫ったときに、自分の過ちを詫びた房子に宛てた手紙もある。返事が欲しいと書いてあったが、房子は政二に返事を出さなかった。私が房子だったら、政二を許していただろうと、辛い気持ちで父の最後の手紙を読んだ。(ここには掲載しない)

政二の遺骨は、その頃暮らしていた横浜市戸塚区の葬儀場で寂しく焼かれた。忠司の妻さくらが取り仕切ってくれた。八郎は、煙突から立ち上る煙を見上げて号泣した。