第一部

三男 敏三 ── 祖父母に寄り添った男

敏三はこのとき四十六歳、恵介より二歳上である。恵介にとっては、六歳下の八郎のように何でも頼み、献身的に働いた弟とは勝手が違い、初めは口論もあったが、敏三は弟・恵介のためにこまごまとした仕事をしていた。

辻堂には、政二の先妻の子・安子がしばらく一緒にいたが、松竹でカメラマンとして働いていた成島東一郎と結婚して出ていった。安子の弟の和司は、恵介の世話で松竹に入って事務的な仕事をしていたが、のちに同じ職場の緑と結婚して、その頃は独立していた。

政二と房子の三男で、恵介が養子にした十三歳の武則は、慶応の中学部に通っていた。武則にとっては、生まれたときから一緒に暮らしていた八郎とは違い、あまり馴染みのない敏三の存在である。またその頃、恵介が運転手兼書生として連れて来た高山(仮名)という二十四歳の青年もいて、武則は、長年勤めているお手伝いのキヌさんには心が許せたが、だんだん疎外感を味わうようになっていった。

敏三が何年間辻堂にいたのかははっきりしないが、恵介が留守の間に、人の好い敏三は騙されて、住むことができない北海道の山林の土地を買ってしまった。そのことで、恵介と口論になったらしい。結局、浜松に戻ってしまった。

筆者は敏三との接点は少ないが、静岡に住んでからのち養父となった八郎に連れられてよく浜松に行った。千歳町の敏三とみつゑの店「尾張屋」は間口も奥行きも狭く、店に入るとすぐ上がり框の畳の部屋へと繋がっていた。

酒が飲めない敏三はお茶を飲んでいたが、弟・八郎にはビールを出し、みつゑとともに歓待してくれた。大人同士が話している間、忍(筆者)は、三人の従姉弟たちとお菓子を食べながらカルタなどをして遊び、ときには店屋物をご馳走になった。

敏三は、その後千歳町の土地を全部売って、「尾張屋」はなくなった。三人の子供も巣立っていったので、妻のみつゑと二人、浜松の中山町、妹の作代の家のすぐ近くに家を借りた。好きな本を読み、好きな骨董や刀剣を眺めて、のんびりとした老後を送ったのである。

作代と義理の姉のみつゑは仲が良く、二人で連れ立ってよく外出していた。敏三が一九九二(平成四)年八十三歳で他界したあとは、みつゑは神奈川県にいた子供の家に行って暮らしていたが、数年後に亡くなった。

一九九八(平成十)年十二月三十日に恵介が亡くなり、年が明けた一月、築地本願寺で葬儀が営まれた。私は控室で、久しぶりに木下家の親戚と会ったが、隣に座った敏三の長男・由紀太は、六年前に亡くなった父・敏三の話を私にした。

敏三が末期癌を患い、余命いくばくもなくなった八十三歳のときのことである。祖父・周吉の命日五月六日が近づくと、敏三は「父がきっと迎えに来てくれるから、五月六日に自分は必ず死ぬ」と子供たちに言って、死後の葬儀のことなどを指示した。