島根半島の佐太神社(出雲国二の宮)の社記によると、祭神は佐太大神であり、また猿田彦大神でもあるという。だから猿田彦が出雲出身であったことは、この社記からも判断できる。猿田彦=スサノヲなら、猿田彦の更なる出身地は新羅ということになり、スサノヲと一緒に新羅から降った五十猛の移動経路にも整合性が出てくるのだが、スサノヲには天孫ニニギを導くという役割はないので、猿田彦とは直接の関連はないであろう。

しかし後述するように、『諸系譜』第4冊に残る忌部氏関連の系図では、讃岐忌部氏の祖である手置帆負(たおきほおひの)(みこと)の妹( 大矢女(おほやめの)(みこと))とスサノヲの子が五十猛命であるから、猿田彦は忌部氏との係わりが深い神であると判断できる。

記紀神話や風土記による五十猛は、山々に樹種を植えて、倭国を青山と為し、紀国の首長になった。神武東征では紀国から伊勢に本拠を移し、五ケ所湾の石城に拠って神武別動隊と戦ったが、後述のように、敗れて信濃に去った。

スサノヲと猿田彦の身体的特徴

スサノヲで身体的に目立つのは、「()(つか)(ひげ)」( 八束(やつか)(ひげ))という長く垂れた鬚であった。『古事記』では、「八拳須(やつかひげ)」となっている。この意味は、彼がユダヤ系であることを考慮すると、次のように解釈できる。

・八拳須=たくさんの拳が垂れたような髭
・八束髭=長い髭。「八や 」=ヤハウェの短縮形か。YATUKA=YUDUKI?
               ユダヤ式に束ねた長い髭= ()(づら)()()())の意味と思われる。

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