第1章 神様との関係性の正しさ=「義」について

第3の義

『神の御言葉の第一原則』

しかしなぜか、歴史的にも「血の契約」が理解されず受け入れられてきませんでした。日本に宣教されたキリスト教各宗派の教会は、未信者を信仰に導く言葉「憐れみ」「選び」などの概念(初歩レベル)から一歩も離れず、「十字架の死と罪の赦し」に終始しています。

そして「神様との霊の関係性」について、「頼りすがる(憐れみを求めること=第1の義と同じ霊性)」と勘違いしていて、「祝福の根拠は契約である」との、その論理性(法的立場)を教えていません。

この原因は、日本のキリスト教が偶像礼拝と同じ信仰レベル(単なる慰め・心の拠り所)に堕ちていて、「神様の絶対的権威・奇跡」をその通りに認めていないからです。そもそも日本人は、創造神である唯一神を知らない異邦人だから、

「イエス・キリストを信じたのにそれ以上何があるの?」

として入信レベルに留まり、神様が望んでいる霊の交わりに、「自分の意志で参加する契約」という信仰の本質に気付いていないのです。

本書は、聖書の文章、文脈、単語一つ一つを、その意味に合わせて「科学的知識、歴史的考察、普遍的常識」などを定規として当てはめて読み解くことで、神の霊が教えようとしている聖書の内容が、人の理性と感情に逆らうものではないことを解明します。

神様の言葉には何一つ矛盾や混沌はなく、すべてきちんと筋が通っているから、人の方で素直に納得できる理解になるまで、理性・知性を働かせて咀嚼を続けなくてはなりません。もし、矛盾を感じたり常識的論理に反する考えが浮かぶなら、その読み解きが間違っているのであって、別の正しい解釈を求めなければなりません。

ここで筆者は、「聖書は無謬である」と主張しているのではありません。翻訳を繰り返してきた日本語聖書は、その文言のあちこちに、表面的読み方では「矛盾」と思える言葉/表現があるからです。ですから逆に、書かれた言葉を咀嚼せずそのまま鵜呑みにして、無批判に信じ込むならば、「洗脳されたのと同じ」で正しくないのです。