序説 いつまでも初歩の教えに留まる勘違い

新約時代に生きる私たちは、キリスト教をどのように捉えて、〔救いの確信〕を得ているでしょうか?

現在の日本のキリスト教で、福音伝道として語られる内容は、「救いとはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと赦し」であり、「それを信じること」と、パウロが「ガラテヤ人への手紙」で書いている文脈と一致しています。

<「ガラテ」2:16 >人は律法の働きによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされることを知ったので、私たちもキリスト・イエスを信じました。それは、私たちが、律法の働きによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによってでは義とされる者はいないからです。

これは16世紀にマルティン・ルターが主張した、[プロテスタント教理]をその通りに実行していることです。現代社会の未信者に対しての、「救霊への招待」としては全く正しいのですが、しかし一旦信仰に入った者が、この入信原理(罪の赦し)を目的として、いつまでも留まっていてはならないのです。

なぜなら、クリスチャンは神様から「義の成長」を求められているからです。

*神様は誰の信仰をも、「その人の信じるまま」で受け入れています(自由意志の尊重)。しかし一方で、本来の救霊目的としてキリストの身丈にまで成長することを願っています。

神の子であるキリスト・イエスを救い主と受け入れた入信時には、確かに「そのままのあなた」でよかったけれども、クリスチャンとしての歩みを始めた以上、「信仰の行い」すなわち「契約による義務の実行」を果たさなければならない責任が生じていて、それを行った結果が「(全能の)神様の栄光を顕すもの」となることが、厳然と求められているのです。

この目的に対するパウロの言葉(クリスチャンの未熟さ)を、著者は次のように解釈します(「ヘブル人への手紙6:1節」)。

ですから、私たちは、キリスト・イエスの教え〈救霊教理〉の初歩=十字架の死による罪の赦しと贖いに頼りすがる解釈をあとに(卒業)して前進(霊的立場の知識を刷新し)、霊的成熟という面(神の子とされた霊的認識)で完全〈神様との霊的関係性が確立すること〉を目ざして着実に学びをしていきましょう。