4.麻続王の流刑地

また余談に入る。万葉集に残る、(をみの)続王(おほつき)の悲劇=流罪のことである。実際の流刑地が因幡国であったのに対し、万葉集では伊良湖に流されたことになっている。そして王の罪状について、史書は具体的に語らない。

万葉集では「麻続王」と表記されるが、意味の上では「麻積王」が正しい。「続」と「積」。ここにも何か、万葉集編者の意図があるのか。

そこで麻続王が罪せられる前後の、天武天皇の政治方針を「天武紀」四年の記事から拾ってみる(現代文に意訳)。

壬申の乱のあとで、まだ政権基盤が脆弱なころの天皇の周りには、歴戦の武官は多いが、法制度・財務面の事務に熟練した文官に不足していた。だから自然の成り行きとして、政治権力を自身に集中させる方策(天皇親政)を採らざるを得なかった時期であった。

関連する年表を掲載する。

 

この一覧で分かるように、天武天皇の親政によって、「麻続王」が属する「諸王」所有の私有民や土地は、今後は朝廷のものにするという大方針が示された。

唐の日本進駐や半島における流動的な唐・新羅抗争の余波を被って、日本の国力強化は喫緊の課題であったのだ。つまり当時の日・唐・新羅の緊張関係は、半島をめぐる唐と新羅の紛争によって、両国がともに日本を抱き込もうとすることに原因があった。白村江大敗によって国力が落ちた日本にとって、絶好の挽回機会でもあった。軍事力強化=中央集権が第一優先になっていたのだ。

事実、唐へは多大な贈り物で進駐軍の歓心を買い、新羅へは遣使を派遣していた。

しかし久努臣摩呂には、このような国際関係が理解できず、官位すべてを失った。同じく麻続王とその子たちは、流罪処分となったのである。ただ『書紀』と『万葉集』とでは、麻続王が流された場所に違いがある。『書紀』は因幡、『万葉集』は伊良湖なのである。

麻続王の所有した土地は、渥美半島にあったと考えられる。その伊良湖岬の部民たちから慕われていた気配が、万葉歌の調べの中に残っている。また麻続王については、その地域的特性として、農耕や漁労の神「猿田彦神」、そして安曇族とも関連している可能性が高い。

長野県安曇野(東筑摩郡)の近くには、同郡「麻績(おみ)村」がある。長野自動車道に、「麻績インターチェンジ」が設置されている。多分、ここもその昔は安曇族に関連して、麻続王の所有ではなかったか。天武天皇は、これらの所有を否定してきたのである。