【前回の記事を読む】教科書にも載る「壬申乱」672年の事件という通説は誤りかもしれない!?

序節 日本書紀の編年のズレ

第1節 6~7世紀の日本書紀編年の捏造表

拙著『邪馬臺国と神武天皇』の「本論」で、大和朝廷は、およそ次のような経緯を辿って成立したことを明らかにした。

ⅰ)天皇家の初祖は、3世紀の半ば、魏帝国によって南朝鮮(韓)から押し出されて海を渡り、南九州の日向地方に避難した辰王朝の王裔、孝霊天皇(フトニ)であったこと、

ⅱ)その後この外来王統が、当時、倭国大乱の後に出雲地方を中心にした辺縁地域に退去していた嘗ての男王国、帥升(シュイシャン=スサ)王統の国、狗奴国、つまり出雲の国主(クヌ)国と結託しつつ、主として母系母権社会を基盤としていたであろう邪馬臺国連合を西から東へと侵略、渡海第2世代の孝元天皇(クニクル)世代において吉備を平定、初期墳丘墓時代を形成し、

ⅲ)続く渡海第3・第4世代である開化(オホビビ)・崇神(イニヱ)天皇親子に至って紀国を平定、

ⅳ)3世紀末葉から4世紀初頭にかかる時代に「女王国」の本丸、大和の邪馬臺国を滅ぼして大和磯城地方の纒向に都を造営、崇神天皇がハツクニシラシシミマキの天皇として大和朝廷の基礎を樹立し、定型前方後円墳時代を(もたら)した。

その上でさらに、この初期天皇王権の携えていた暦術が中国の秦から前漢の前半まで公用されていた顓頊暦(せんぎょくれき)直系の暦術であり、大和朝廷は、この暦術に随伴していた古いタイプの干支紀年法、「一年下った干支紀年法」、つまり拙著の言葉で「旧干支紀年法」を公用干支紀年法として、持統(称制)4年紀(690年)まで墨守していたであろうことを指摘したのであった。

以下、旧干支紀年法による干支年に「旧」を冠して旧〇×年と記述し、持統4年紀以降現在まで続く現行干支紀年法(以下で、新干支紀年法とも呼ぶ)による干支年に「新」を冠して新〇×年と記述して混乱を避ける。例えば、壬申乱は新壬申年・672年の事件ではなく旧壬申年・673年の乱である、というように用いる。国史における旧干支紀年法の存在を初めて指摘したのは友田吉之助博士である(同氏著『日本書紀成立の研究増補版』〔風間書房昭和44年〕)。

友田博士は、和銅年間、紀朝臣清人(きのあそみきよひと)と三宅臣藤麻呂(みやけのおみふぢまろ)に詔あって撰定せしめられた国史が日本紀と称せられ、これが旧干支紀年法を保存しつつ編年されており、今日に残る日本書紀(以下、書紀)は、この日本紀(いわゆる和銅日本紀)を現行干支紀年法によって全面的に改訂修撰したものであろうことを、書紀自身および、『万葉集』、『先代旧事本紀』、『扶桑略記』等を初めとするさまざまな古資料に残る痕跡から推論されたのであった。