さて、読書について言えば、私は勿論プロではなく、一般的な読者であるので、専門的な本の読み方など全く解らず、我流そのもので通してきた。思いつくままランダムにその一部を書いて見ると、日本では、漱石、鴎外、独歩、藤村、直哉などから始めて、大正、昭和の標準的な作家(ここでは特に作家名を列記しないが)を経て、最近では大衆文学に凝り、吉川英治と池波正太郎のほぼ全作品を読み終えたばかりである。

私は、純文学でも大衆文学でも、特にその区別の必要性はないと思っている。読者自身が、それぞれの立場で、その見解を持てば良いのではないかと思う。

一方、外国ではロシアのプーシキン、ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、ツルゲーネフなどから読み始めて、ドイツではゲーテ、トーマスマン、ヘッセ、リルケあたりを読み、フランスではスタンダール、バルザック、フローベール、ジッド、モーパッサン、プルースト、フランスなどの作品を経て、途中、カント、へーゲル、ニーチェ、ショウペンハウエル、フィヒティ、サルトル、ボーヴォワール、カミュなどの哲学書にも少し手を染めた時があった。

中国では、十八史略、三国志、水滸伝、西遊記などが標準的な読み物だが、日本では司馬遼太郎の『項羽と劉邦』や最近刊行されている宮城谷昌光の『夏姫春秋』『重耳』『春秋の名君』陳舜臣の『耶律楚材』などの中国ものも面白い。

米国でも、有名な作家は多いが、いずれ辞書を引いてでも、原著で読みたいと思いつつ、いまだ語学力不足のため、手つかずのまま現在に至っている。丸善などでは、原著の英書も売っているが、まだまだ手が届かない。

このように、これまで読んだ作家の名前を列挙してもきりがないし、余り意味もない。

ただ、一つの本の道というようなものは、誰にでもあるのではないかと思う。