新しく物事を始めようとする時、初めから諸手を挙げて賛同を得られるなどという期待を抱いてはいけない。人間は進歩を前提として語られるが、私は人間の本質は攻めよりもむしろ守りの側にあると思っている。

人間の思考は――先天的な能力の差はあるにせよ――経験に制限されており、それを超えた事象には反射的な拒絶反応を示す。既に知っていること、自明のことの繰り返しを好むのが人間であり、挑戦ではなく現状への安住と反復にこそ安らぎを見出すのだ。

だから多くの場合、挑戦というものは懐疑や反発、そして場合によっては嫉妬、嘲笑に曝される。それは取りも直さず、変化への恐れが為せる業だ。暴力や権威による抑え込みが許されない場合、そのような有象無象の抵抗を解消し乗り越える武器は言葉しかない。粘り強い対話を通じ、相手の理解と共感を獲得するのだ。

人間の心の中を窺い知ることはできない。他人はおろか、自分自身の心でさえも精緻に把握することはほとんど不可能だ。そんな不可知な人間同士を結び付けるツールが言葉であり論理だ。言葉から感情を排し道理に沿って議論を進めれば、それに応じた合理的な反応が得られる。

会社という場における道理とはすなわち利である。

ある仮定に基づいて、論理的帰結としてどれだけの利益がどの程度の蓋然性を以って見込まれるのかというシンプルなゲームだ。会社内で起こるほとんど全ての出来事は、突き詰めれば、どれだけ説得力と合理性を持ってこのゲームを進めていけるかという一点で成否が決まる。

もちろん、言葉も論理も決して完全ではない。そもそも、経済的利得というものは本質的にトレードオフであって偏在性を有するので、全員が勝つという理想的状況など端から存在しない。

ビジネスは、誰かがトクをすれば、必ず同じ分だけ別の誰かがソンをするゼロサムゲームだ。

予算にせよ利益にせよ、所詮はパイの奪い合いであり、限られた経営資源をどのように分配するかという政治的判断に行き着く。従って、言葉を尽くして議論を重ねても、なお合意に至らないこともあれば、決裂し物別れに終わってしまうことも珍しいことではない。