【前回の記事を読む】「空前の起業ブーム」…昔では有り得ない「マネーゲーム」とは


十一月二日(東京都港区)

都心のガラス張りの高層ビル。

二十三階にあるエネルギーサービス事業部のオフィスに戻ると、すぐにパソコンを立ち上げた。デスクトップの背景に、満面の笑みをたたえた栞の写真が映し出される。この社内ベンチャーチームの統括責任者になってからは終電帰りが続いていて、娘にはほとんど会えていない。真子は私の携帯にその日の出来事や栞の動画をこまめに送ってくれるが、その返事もままならない。

いずれにせよ、この案件が片付くまでは辛抱だ。

メールボックスを開くと、既にチームメンバーから午後の会議に必要な資料がひととおり届いていた。まだ細部に多少の粗はあるが、私の意図を汲んで先回りして段取りをつけてくれる優秀な部下だ。私は「資料拝受。ありがとう」と短く返信を打つ。

今回の件では、彼らにもかなりの負担を強いている。部下の仕事を当然と思ってはいけない。どんなに些細なことでも、必ず感謝の気持ちを言葉で表さなければならない。良好な協力関係は相乗効果を生む。そのためには、相手を信頼し任せることが重要だ。

人間は本能的に相手の期待に応えること欲する。誰かに信じてもらえていること、期待されていると実感できること、これが何よりも大きな原動力となって、個々人の生産性は飛躍的に向上する。

私は彼らの貢献で自由になった時間をフル活用して、ルーティンではカバーしきれない突発事象や課題を、来るべき取締役会へ向けて一つずつ潰し、外堀を埋めてゆくのだ。

午後は財務部長への根回しが控えている。彼は取締役会のメンバーで、我が社の予算を一手に握るキーパーソンだ。彼の了承なくして投資決定はありえない。私のチームは、既に投資対象の詳細な情報収集とデューデリジェンスを済ませている。加えて、財務部長の権限範囲や数字にこだわる彼自身の細かい性格も踏まえて、十分な量の想定問答集を準備してある。

まず、必ず問われるのは株式価値の算定根拠だ。特に今回は非上場会社の株式取得なので、株価算定の前提となるキャッシュフローの妥当性と割引率については徹底的に詰められる可能性が高い。また、投資先が必要としている資金と我が社が提示している投資額の整合性にも注意を払う必要がある。

競合もそれなりの金額をオファーしているだろうから、安く買い叩くことはできない。かといって高値掴みによる不良資産化は絶対に避けなければならない。その他にも、期待される投資利回り、投下資金の回収期間、リスク要因とそれらリスク顕在化に際してのヘッジ手法、云々。