【前回の記事を読む】「デカダンス」における最大の自己矛盾とは?

十一月二日(東京都杉並区)

人類の、言語による途方もない世界解体の営み。この果てしない自己言及。こんな世界にたまたま生まれついた僕は、意図せず与えられた言葉によって、このバラバラの世界を自分だけの形に再構築しようと虚しい努力を続けている。

他者から見れば、僕がやっていることは愚かな独り相撲に違いない。僕をこんな無謀な試みに駆り立てるものは一体何だろう? 他者という存在の底知れぬ不気味さだろうか。死への拭い難い恐怖だろうか。

ここには論理の飛躍がある。他者への恐れも死への畏れも、言語による世界の再解釈という作業とは直接的にはつながらない。この思考経路の捻じれを僕は自覚している。

だが、その論理が飛躍し捻じれている部分にこそ、僕の問いの核心が存在するのだと思う。人間は理解できないものに恐怖を抱く。分からないものは、その分からなさ故に、恐れの対象となる。僕にとって、言葉によって因数分解し得ない究極の素数が、他者の心と自己の死なのだ。僕の望みはこれらの理解と克服、ただそれだけだ。

今のところその試みは失敗に終わっている。言葉でしか思弁し得ない存在が、言葉で表し得ないものを理解しようという方法論自体に欠陥があるからだ。言語の枠外にあるものを言語で捉えようとする限り、この謎は永久に解けない。

ならば、より自由であるために、いっそのこと言葉自体を忘却すべきなのだろうか。言語を棄却し、思考の土台を転覆させれば、僕の心に苔のようにこびりつくこの不安は消失し、自由は完成されるだろうか。

残念ながら、恐らくそうではない。言葉を失った時、僕は同時に所与の思考様式をも喪失し、僕を僕自身として認識する術を失うことになる。

認識の主体が失われたところに、もはや自由が存在する余地は無い。そこにあるのは思考における真空、強いて言葉に託するならば、ただの「無」だ。つまり、言葉の放棄は自己と世界を丸ごと破壊する自爆テロであって、即ちそれは僕の死とほぼ同義だ。

人生は出来の悪いロールプレイングゲームに似ていると言える。ロールプレイングゲームが人生を模倣しているというべきだろうか。僕たちには、人間として生き、この世界を読み解くために、言葉という武器が与えられる。

だが、その武器には根本的なバグが仕込まれている。どれだけ言語能力を研ぎ澄まし、レベルやスキルを上げようとも、その欠陥は修繕することができない。そのバグのために世界は歪み、理解不能な謎を生み、その是正は永久に成されない。

人生という冒険には目的もなければ、倒すべき唯一絶対の敵も存在しない。僕たちは、言語の呪いのもとに、ただただ奇妙な感覚と後味の悪さだけを抱えて、何も分からず、何も解決できないままに時間切れを迎え、このゲームから退場してゆく。