第1章 山心の黎明期

【開聞岳】 山頂は歌声喫茶 〜1961年3月(24歳)〜

九州一人旅

窓から梅の香りが匂ってくる。学生生活が終わったいま、下宿の四畳半でふと4月からの自分を思う。(社会人になる前に九州一人旅でもしてみようかな)そんな気持ちで東京を出発した。

10日間の九州周遊券は4200円。お小遣いを1万2000円持って一人旅に出た。長い汽車の旅から解放されて、西鹿児島駅に降り立った。駅前の大きなフェニックスの木が南国的だ。鹿児島湾の上に桜島が朝焼けのなかにくっきりと浮かんでいる。

山川行の気動車は出発までには間があったので、駅前を散歩してみた。白いスイカを売っている? いや、これが桜島大根か。乗り込んだ気動車の席はうまく海側に取れた。

窓の外には、青い水面が大きく回転するように流れていく。船もいくつか浮かんでいる。しばらく走ると駅に停車した。指宿。

「ああ、ここが砂湯で有名なところか」

座席で、私が独り言のようにつぶやくと、

「そうです。良い気持ちですよ。入ってみてください」

相向かいの席のモンペ姿のおばさんが話しかけてきた。両足の間に大きなトタンの箱を挟んでいるところを見ると行商人らしい。この九州旅行で主な観光地はだいたい見学したが、どこに行っても達成感が弱い。

そう思いながら鹿児島まで来ると、窓の外には煙の上がる桜島が目の前に浮かんでいる。登るにはなんだか怖そうだ。ちゃんとした登山の経験がない自分には無理だろうか。

(どこかの山に登って汗をかきたい)(強烈な達成感がほしい)などと前向きな気持ちが私の心のなかでメタンガスのように湧き上がっている。一方で、(レインコート持参だぜ、リュックじゃなくてボストンバッグだぜ……)と引き留めるもう一人の自分が葛藤する。

そして、故郷・高崎の観音山歩きの思い出がよみがえる。もう一度あのころの自分に帰って、旅行姿のまま開聞岳に登る決意をした。

目的の山川駅に着く。海岸に手繰り寄せられているたくさんの網で漁臭い。国鉄バスを乗り継ぎ、開聞岳登山口に向かった。

バスの停留所も兼ねている売店に旅行用のボストンバッグを預けて、私はパンとジュースとリンゴを買い、それを風呂敷に包んで腰に縛り付けた。そして、売店の娘さんに尋ねる。

「山に登るのは、あの道を行けばいいんですね?」
「はい、そうです」

牧場のように広い山麓の畑には、蝶が乱舞していた。菜の花が咲き、ポカポカした春の陽気である。バスを下りた女性グループ4人と、それとは別な一人の男が、私と一緒に頂上を目指すことになった。

※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。