第1章 山心の黎明期

【高崎観音山】虫からもらった生きる力 ~1959年2月(22歳)~

山が好きになったのはこのころから

そして、忘れられない思い出がもう一つ。大学3年の11月だったか、いつものように山道を歩いていると、落ち葉のなかに虫の死骸があった。その横を同じ虫の仲間が歩いていく。私はしゃがみこんで、しばらく虫の動きを見つめた。

(俺が靴で踏み潰せば、生きている虫も死骸になる。生きている虫と死んだ虫とにどれだけの違いがあるというのか? 人間だっていつかは死ぬ。火葬場で焼かれて釜から出てくれば、大きな骨は長い箸でつままれて骨壺に入れられ、小さな骨はほうきとちりとりで集められてしまう。ゴミのように……)

やたらとそんなことを考えた。

(神さまがくれた俺の肉体だ。何もそんなに急いで骨にならなくたっていいじゃないか……。俺の肉体が虫の死骸のようになるまで生きてみようじゃないか……)

このときの経験は、その後の私の人生に大きな影響を与えたのである。

何度も見た夢

2度目の大学3年生を終えようとする2月の年度末試験。私は抽象代数学のテストで75点を取り、晴れて大学4年に進級できることが決まった。夜になって布団に入ると、じわじわと喜びが湧いてきて涙が止まらなかった。

(4年に進級できたんだ! 3年が終わったのだ!)

と何度も嬉しい気持ちが高まってきて、朝起きると、枕が嬉し涙でビショビショになっていた。

入学後5年目の秋の昭和35年10月、私は東京都公立中学校教員採用試験に合格した。昭和36年3月に大学を卒業すると、昭和36年4月から東京都公立中学校教諭として採用され、府中の中学校から私の教員生活は始まった。以後、教諭として36年、嘱託として不登校生指導5年、退職後に講師1年、合計42年の教員生活を勤めることができた。

小田急線に飛び込もうと思ったこと、高崎観音で虫の死骸を見て生きようと思ったこと、もう1日だけ生きて死ぬのは明日にしようと思ったこと。21歳から23歳までのあのころのことは、40歳過ぎてまでときどき夢に見たものだ。

(え! 来週、抽象代数学は試験かよ? 俺、準備できていないよ……)、(わかんないよ。この問題……。どうしたらいいんだ……この先?)と、夢のなかで苦しんでもがいていると「はっ!」と目が覚める。顔を油汗にして。

そして(なんだ、夢だったのか……。俺は卒業したんだよな。間違いないよな……。いま、俺は中学校の教員をしてるんだよな……)と我に返る。こんな夢を40歳過ぎてまで何度も見た。

あのとき自殺をしていたら、その後の4倍以上の人生はなかった。やはり、生きていて良かった。

※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。