第三章 新任地

教授の仕事

梅澤は、十月に北陵医科大学に教授として着任した。

大学に勤務する医師には3つの使命がある。

その一つは、専門分野の高度医療を実践することである。京帝大学が日本を代表する大学であることに加え、三村史雄教授の臨床免疫内科は西日本のリウマチ膠原病診療の最高峰である。そのために、開業医や一般病院から、診断が困難な患者や治療に難渋する重症患者が毎日紹介されてきた。

大学病院は患者にとっても医師にとっても、最後の砦のようなものである。その事を京帝大学の助教授として痛い程感じていた。一般病院に勤務している時には想像もしなかった重圧である。一人で解決出来ない時には、毎週のカンファランスで医局員全員が意見を出し合い、三村教授の判断を仰いで治療を行ってきた。できうる限り、最善の医療を提供してきた。

梅澤にとって、京帝大学臨床免疫内科で得た知識や技術は大きな財産となった。北陵医科大学にも、重症の難病患者が毎日のように紹介されてきた。患者には、京帝大と同じように最高レベルの治療を提供しなければならない。しかし、ここでは自分が講座のトップであり、頼れる上司はいない。そして、豊富な知識と経験を持った医局員はまだ育っていない。

日が経つごとに、京帝大時代と違う重圧を感じるようになった。大学のレベルや地域の差で、患者が受ける医療の質が下がってはいけない。自分がもっと勉強し経験を積み、それを医局の若い医師に伝えて優秀な専門医を育て上げなければならないと痛い程感じていた。

二つ目は、教育である。医師を志して毎年100名の学生が北陵医科大学に入学してくる。大学に勤務する医師は、教官としてその学生を一人前の医師になるために最低限の知識を教える義務がある。直接的には、毎年行われる医師国家試験に合格するレベルを身につけさせなければならない。特に、北陵医科大学のような私立医学部は国家試験合格率が低く、それを向上させることが至上命令になっている。梅澤も、国家試験を念頭に起き、難しいリウマチ膠原病をいかに分かり易く学生に講義するかに心を砕いた。

地方の私立医科大学であるので、卒業後すぐに地元に帰って親の跡を継ぐ学生も多い。しかし、梅澤は、開業医を育てるためでも、金儲けを考える医師を作るためでもなく、難病患者を救う事がいかに重要であるか、それがどれほど医師としての喜びに繋がるかを熱く伝えようとした。

三つ目は、医学研究である。今日の医学の発展は、地道な研究の積み重ねである。梅澤は、4年間の京帝大学ではリウマチ膠原病の研究に従事し、3年間の留学時代にはより基礎的な免疫学の研究を行った。帰国後は、免疫難病の解明や治療法の開発に取り組んだ。多くの論文を発表し、治療薬の臨床開発にも関わってきた。そして、厚生労働省の研究班長を務め、IgG4関連疾患という今世紀に発見された難病を世界に向けて発信していた。

梅澤は、この3つの使命のいずれも大好きであった。それらを少しでも発展させるためであれば寝食を犠牲にしても苦にならなかった。