【前回の記事を読む】キーは監督の「勝負勘」…怪物と呼ばれる強豪校を退治せよ!

2.名将「斎藤一之」の誕生と銚子商野球部

そして、昭和47年に初めて怪物と対戦してから、「怪物退治」のために、バッティング練習の際に、打撃投手をマウンドから5m前に出し、投げさせていたのだ。

バッティング練習を行うレギュラー組が、マウンドより5m前のバッティングピッチャーから放たれる全力投球を、必死に打ち返している姿は、当時の土手クラブの目に焼き付いていたという。

それまでも、例えば、昭和47年には、県内の宿敵の一つである「成東高校」、後に中日ドラゴンズで124勝を挙げる剛腕、鈴木孝政投手が存在した時期は、バッティング練習を行う際、斎藤監督はヘルメットを深くかぶらせ、高めのボールに手を出さない練習、腰からひざ下あたりのボールに手を出す、いわゆる目利きの練習をしたなど、その年その年で強敵が現れると、決まって対策を取る柔軟性があった。

そして、これはあってはいけないことだが、この頃は、先輩による下級生へのしごきと称する、いびり、いじめが当たり前にあった時代だった。特に過去1年生からレギュラーを張ったメンバーの中には、ひどいいじめを繰り返し受けたメンバーもいた。

斎藤監督は、「しごき」「いじめ」にはひときわ厳しい人物だった。極端な話、いじめが発覚した瞬間、当事者を退部させたこともあるほどである。決して見て見ぬふりはしなかった。名将は、チーム内部の事情には、人一倍敏感だった。

このように、27年間もの間、特に昭和40年代に絶頂期を迎えた銚子商を、表と裏から作り上げていった。