プロローグ

日本におけるメジャースポーツは、今なお野球といっても過言ではないだろう。近年は野球人口の減少が叫ばれているが、それでもプロスポーツにおいて、巨額の金が動くという背景からも、やはりこの国における最も人気のスポーツといっても違いはない。

その中で、アマチュアでありながら高校野球は、特別な存在である。その高校野球においては「甲子園」という言葉さえ神格化しているともいえた。同時に、その甲子園に出場したことによって、運命が変わったというエピソードもよく聞かれる話だ。

昭和58年生まれの私は、銚子市というやはり野球の町の中で育った。とりわけ今回、銚子商と斎藤監督に関わる作品を手がけたのもこの縁であるが、そのほかにも作品を手がけた理由についてはいくつか存在する。

一つは、私の兄が、斎藤一之監督門下の最後の卒業生で、千葉県民の高校野球ファンの中では最も有名な一戦であった、あの「成東悲願の甲子園出場」の年に成東の押尾健一氏(成東-ヤクルト)と戦った選手であったこと。

もう一つは、私自身が、かつて存在した銚子市の少年野球組織、「銚子リトルリーグ」のOBであったことだ。銚子リトルリーグの指導者たちは、斎藤監督の教え子や、当時斎藤監督の銚子商のライバルとして戦った元選手も多く在籍し、指導者として銚子市の野球文化の継承と繁栄に力を注いできた。

この時、地元の英雄、斎藤一之について、私自身も多くの話を聞いてきた。つまり、銚子市の野球の歴史は、斎藤監督の銚子商が中心だったといっても過言ではないし、少なくとも著者である私はそう感じている。

しかし、リトルリーグだけでなく、周辺地域ではレベルの高かった小学校野球部、中学野球も、銚子市の急速に進んでいく過疎化によって、かつて銚子が付く中学は第八まであったのが2校にまとめられることになり、銚子リトルリーグ、シニアリーグも、2016年に30年の歴史を閉じた。

この出来事と比例するかのように、銚子商は2005年、斎藤一之監督の息子、斎藤俊之監督の手で出場した2005年の夏の甲子園を最後に、甲子園出場を達成していない。さらに、銚子市に隣接する茨城県周辺や旭市など、周辺地域から有能な選手が出てきたとしても、県外の私立高へ優遇され、進学し、銚子商に進路を進めないという選択が多く取られているのも事実だ。