このように、土手クラブ、OB会と野球部を取り囲む人々が組織化を行い、野球部に強力なバックアップ体制を敷いていたことは、この時期の銚子商野球部を語る上で欠かせない事実だった。そして、公式戦となると、斎藤監督の「名将」と呼ばれる所以が表れてくる。

斎藤監督の武器である「勝負勘」である。昭和63~平成元年当時キャッチャーを務めていた畑山氏によると、例えばチームが、無死、1死の状態でランナー三塁に置くピンチになると、監督はキャッチャーに対して、カウントの組み立てを指示してくる。

そして、ある一定のカウントになると、例えば相手がスクイズの様相を見せた時、すかさず「外せ」のサインを出し、相手のスクイズを外してピンチをしのぐという。しかも場合によっては、球種まで指定し、「この球種でスクイズを外せ」という指示まで出すという。

また、攻撃面でもエンドラン、バントを多用し、例えば相手投手がバントに弱いとわかった瞬間、バント攻勢を仕掛け、ある時は、打者に対し「ノースリーから打て!」というサインを出し、結果ホームランになるという、ここぞという場面でいくつもの勝負勘と戦術を繰り広げ、チームを勝利に導いてきた。

そして、これが、公式戦だろうが、練習試合だろうが関係なく、弱点を突く作戦を徹底した。斎藤監督は「データ」を非常に重視した監督と言われている。

のちに、昭和48年の「怪物退治」のキーマンとなる長谷川泰之氏は、まだ「東関東大会」(昭和47年まであった制度)があった当時、茨城県代表のチームと当たる可能性があった時、1年生時に茨城まで出向いて、当たる可能性があるチームのデータを取っていたという。そのチームのエースの配球やバッターのデータを取り、その結果を斎藤監督に渡していた。

ちなみに、長谷川氏は、1年生当時の江川投手の偵察まで行っている。当時1年生だった江川は、翌年のセンバツをかけて秋季大会の関東大会までコマを進めたが、初戦の前橋工業戦で死球を受け、退き、作新はその試合1︲2で落としたが、この時も長谷川氏は、現地で偵察を行っていた。

こうして、「常勝、銚子商業」は、「データ」「監督の勝負勘」「選手を徹底的に鍛える」という手法を用いて、打倒怪物江川に向け準備を進めた。