トロワ

「良いカレーペーストが手に入ったのよ」

真由子の透き通った声は店内の隅々に届く。

「カレーの味をそんなに変えるとファンが付かんぞ。いつも美味しいけどな」

森は店の運営ばかりか味にもうるさい。拓史と真由子の後見人気取りだが、大きく店の経営に踏み込まない分別は持っていて拓史も好感を持っている。見守ってくれる大先輩。まるで勅使河原の生まれ変わりのようだ。

「明日の朝、試食してみます?森さん」

「朝からカレー、ええかもな」

森に出す豆をミルにかける真由子。これで二杯目。嬉しそうに目を細める。

3年前、ここに写真館を移す計画がまだ白紙だったころ、森がカフェを廃業するなら、私たちで1階のカフェの営業は続けようよ。そう言い出したのも真由子だった。それ以来、森は真由子の一番の支援者になっている。風間(ひと)()が駆け込んできた。外では雨が降り出したらしく、マリメッコ柄の傘をたたみながら、

「おはようございます」

と挨拶をした。穏やかで低めの声が耳に届く。

いつも仁美は髪を引きつめ、ミニスカートにジャケット姿が定番。勅使河原のアルバイト時代から変わらない。今日は珍しく黒のパンツスーツ。端正な顔立ちと礼儀正しさからも人気を集める。電話が掛かると、いきなり彼女を指名する顧客は多い。地味な彼女の、本当は頭の回転の速いところを森はライバル視しているのか、真由子に向ける視線とは明らかに違う。

しばらくすると、営業マンらしき4人連れの客がやって来て、喫煙席を見つけて陣取った。店内の有線放送からはモリコーネの曲が流れてくる。黒のエプロンを身に着けた真由子がオーダーを受け、コーヒーを淹れている。この時間になると写真制作担当の十川(そがわ)が出社しているはず。カメラマンの内藤と小絵を除けば、これで全スタッフが揃う。

十川はプリント処理からアルバム製作までを一手に引き受けてくれている。彼はいつもエレベーターを使わず、外階段を使って3階まで登り下りする。彼は仕事熱心というより、最新のマッキントッシュ・コンピュータを使える喜びのほうが大きいらしい。おかげで各階にネットワークが張り巡らされ、撮影の進行とともに実写映像が実況中継のようにカフェのディスプレイに飛んで来る。

内装工事よりシステム投資のほうが高くついたかもしれない。拓史はこれで資金のすべてを失ったが、森の出資があって出店の決心がついた。思い描く業容と思いがけないカフェ運営、何よりビジョンを共有できるスタッフに囲まれる幸せを手に入れた。

1階の一番奥はスタジオの接客スペースで、ミーティング・ブースにもなっている。今朝は撮影現場直行の内藤と、京都へロケハン中の小絵がいないが、3階の十川を加えて、いつもの朝を迎えた。もちろん森もメンバー。このチームの風通しは良い。